六百六十四、都バス梅70系統乗車記

平成二十七乙未
二月一日(日) 首都圏ネット運営委員会最終記念
うちの労組が加盟する首都圏ネットワークの運営委員会は、Aさんが倒れてからは私が出席して来た。しかし今期は忙しく運営委員会は別の方にお願ひすることになつた。といふことで先日の運営委員会が最後である。いつもは総武線の各駅停車を使ふが今日は派手にやろう。といふことで有給休暇を取り、都営まるごと切符(700円)を購入し、あちこち回つた足で参加することにした。
まづは都バスの梅70系統に乗らう。西武柳沢駅前から青梅車庫まで31.8Kmを一時間四十五分で走行する。次に新堀舎人ライナーに乗らう。どちらも最近よく使ふ都バス一日乗車券(500円)や時期限定休日販売の都営地下鉄一日乗車券(500円)では乗車できない。独身時代は夏に都営まるごと切符(当時は都営1日乗車券)で都内を巡るのが毎年の行事になつてゐた。結婚して子どもが幼稚園に入園する辺りから専ら都バス一日乗車券になつた。

二月一日(日)その二 西武柳沢へ
この日は朝起きてやはり止めようかと思つた。冬だからトイレが近くなる。一時間四十五分は長い。しかし休暇届を既に出したことを思ひ出し家を出発した。都営地下鉄の中井で降りて西武線(237円)に乗り換へる。しかし時間に余裕があつたので都営地下鉄の中野坂上から野方駅南口まで都バスに乗り、ここで西武線(206円)に乗り換へた。これは時刻を十分に調べたからできることであつて普通の人は絶対に真似してはいけない。たかが31円のことでバスに乗り遅れたら大変である。梅70系統は一時間に一本しかない。
西武柳沢駅ではきちんとトイレに行つた。ところが床が水浸しである。小便器の一つが壊れたのだらう。一番左の水浸しのないところに歩幅を広げてやつと到達した。

二月七日(土) 昭和病院
梅70系統はインターネットで検索すると乗車記が幾つもある。それによると昭和病院で2/3くらいが入れ替はる。私が乗つたときもこの程度の乗降客があつた。だからといつて梅70は公立昭和病院に特化した訳ではない。それは日曜も運転されるからである。
昭和病院は昭和三年北多摩郡昭和病院組合として設立。昭和四十七年九月昭和病院組合に変更、同年十二月病院名を公立昭和病院に偏向した。小金井市、小平市、東村山市、東久留米市、清瀬市、東大和市、武蔵村山市、西東京市で構成され昨年八月昭和病院企業団に再編成した。組合といふのは懐かしい事業主体である。地方の村で公立学校を作るには小さいところは幾つかの村が共同で組合立の学校を作るといふ話を中学生のときに聞いたことがある。

二月八日(日) 新小平駅界隈の思ひ出
バスは青梅街道を走る。新小平駅といふ停留所ではつと気が付いた。ここはかつてよく降りた駅である。当時は武蔵野線で通勤したので休みの日は新小平駅で降りて玉川上水路まで歩き、あとは上水に沿つて三鷹、拝島、羽村まで歩いたものだつた。また、手塚貫道師の上妙寺といふ自宅を改造した寺院があり、参拝のときは最初は高田馬場で乗り換へたが後に新小平駅で降りて青梅街道駅まで歩き西武多摩湖線で武蔵大和駅まで行つた。
新小平駅を少し西に行つたところに個人経営(たぶん店主と奥さんとお母さんの3人)の食堂があり、道路から15mくらい引つ込んでその部分は駐車場だつた。トラック運転手がよく食べに来て私は徒歩だつたがよく食べに行つた。当時の新小平駅は電車が来ないときはがらんとした人のゐない駅で、青梅街道もあまり車が通らなかつた。玉川上水路までの道は農家ばかりだつた。

二月十一日(水) 青梅車庫到着
終点の青梅車庫に着いた。隣の公園に公衆便所のあることは調査済みだが、そのことを忘れて隣の神社の説明板を読んだ。そして参拝した。公衆便所のあることに気付きここが公園だと判つたが一人用の公衆便所は鍵が掛かつてゐた。誰か入つてゐるのかも知れないし閉鎖したのかも知れない。市内を歩いて図書館の便所を借りた。駅前まで行き、パンを買つて歩きながら食べて(観光地では時間の節約のためよくこの方法をとる)青梅車庫の二つ手前から乗車し帰路についた。
西武柳沢駅の便所は朝ほどではないがやはり床に水があつた。二番目の便器が詰まつたのだらう。帰路は中井から地下鉄に乗り換へた。その理由は日没前に日暮里舎人ライナーに乗り終点の見沼代用水公園を見るといふ目的があつたからだ。この日の日没は午後五時四分である。

二月十四日(土) 日暮里舎人ライナー
日暮里といふと私は小学生のときに民間の卓球センターがあつて一回行つたことを思ひ出す。あと玩具だつたか花火だつたか駄菓子だつたかの問屋街があつたさうだ。「あつたさうだ」といふくらいまつたく無名だつた。日暮里の西側は墓地と平凡な煎餅やなどが並んだ街があつた。それなのに日暮里舎人ライナーといふくだらぬものを作つた。これは許し難い。日暮里は貧乏が似合ふ街である。あと消防署の音無川出張所がかつてあつた。といふかインターネットで調べたら今でもある。これは貴重である。駅前は消防署や清掃工場や貧乏な長屋商店街が似合ふ。舎人ライナーは西日暮里を終点にすべきだつた。

二月十五日(日) 見沼代親水公園
見沼代親水公園を歩くのは二回目である。一回目は五年ほど前だらうか浦和の実家から見沼代用水東縁に沿つて南下し見沼代親水公園に至つた。公園を少し歩いた後に再び北上し浦和に戻つた。
今回歩くと神領堀親水緑道に出会つた。ここでも前回の記憶が蘇るのを感じた。更に歩くと毛長川との交差地点に至つた。実際は見沼代用水が毛長川に放流されてしまふ。農業用水が健全だつたときは交差地点だつた。ここに見沼代用水東縁の終点を示す標識がある。ここまで見沼代用水土地改良区の管轄である。実家に帰つたときは西縁の終点をほとんど毎回といつてよいほど訪問するから感慨深かつた。
次に毛長緑道なるものもある。これは単に毛長川の旧流である。私が中学生のとき足立区は田んぼだつた。今ではほとんどが住宅地になつてしまつた。(完)


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