千七十一 「陸王」に見る市場変化と、埼玉県の変遷
平成二十九丁酉年
十二月二十九日(金)
テレビドラマ「陸王」が大人気だった。私は最終日しか見なかったが、それが良かった。この日だけでも14時から16時半まで「陸王」SPダイジェスト、19時から21時まで緊急特別ドラマ企画「陸王」最終章、引き続き21時から22時19分まで「陸王」最終回だった。
私は19時から22時19分までが最終章だと最初思ったから、14時から16時半までを見ないとこれまでのあらすじが判らないと思って観た。しかし19時から21時までまでがこれまでのあらすじとスピンアウトなので、これを観れば十分だった。
とは云へ、全部を観てよかったとそのとき思ひ、その感想は今でも変はらない。それだけ内容のあるテレビドラマだった。

連続テレビドラマは、話が逆転したり次々と事件が起こる。SPダイジェストを見るとそのことを強く感じた。SPダイジェストは始まる前に「陸王」を賞賛する視聴者の一言感想を多数登場させるので、これは嫌味に思へた。しかし最終章では話の逆転や次々と起きる事件は省略し、あらすじだけに編集したので、なるほど名場面集のダイジェスト、今までのあらすじの最終章と役割分担されたのだと判った。
私は両方を観ることができてよかった。

十二月三十日(土)
「陸王」の足袋製造会社「こはぜ屋」の苦境には、埼玉県の自然破壊が重なる。我が家が浦和に引っ越すため、土地を買ったのは昭和42年頃だった。南浦和駅西口の駅前通り(文化通り)が文化センターの四つ辻で斜めからの道に合流し二区画過ぎると、その左側は一面の空き地で、はるか彼方を走る国鉄(当時)の電車の音が聴こへ、走行する影が見えた。今ではとうてい影は見えない。
昭和47年に引っ越したとき、この辺りは住宅がぽつんぽつんと立ち始めたが空き地は多く、夏には草が茂り秋には虫の声が大きかった。鉄道の東側に広がる二つの見沼代用水の周辺は一面田圃だった。
昭和57年頃に見沼代用水に行ったところ、二つの水路に挟まれた内側だけが見沼田んぼとして残り、外側はぎっしり住宅が建ち、その変はり果てた姿に驚いたものだった。西側も蕨と南浦和の中間は広大な田圃が昭和55年頃まで広がってゐた。

十二月三十一日(日)
昭和50年辺りまでは、中山道の都県境である戸田橋から先は、道路の両側に田畑が続き信号は浦和市内に入るまで5か所くらいしかなかった。そして浦和市内を除き信号が変はるときはベルが鳴った。私は自転車を戸田橋から六辻(浦和南端)まで一回もブレーキを掛けずペダルを漕ぎ続けたことがある。
行田はそんな農村地帯の浦和、大宮のはるか先に位置する。だから足袋の産地と云ふのは十分に納得が行く。その間、都市化が少しづつ進み、そしてプラザ合意の円高で地場産業は大きく縮小を余儀無くされた。

一月二日(火)
埼玉県で大きく変はったものはまだある。川口市安行と云へば昭和四十七年にはまだ植木の産地だった。あの頃に植木ブームがあり、畑ごと(畑に植ゑてある花全部を)問屋が買って行ったと云ふニュースを新聞で読んだことを今でも覚えてゐる。
その後、宅地化が進み畑ごと(畑そのものを)買って整地して宅地になってしまった。
あの頃、石油ショックがあり、川口駅の駅長が新聞のインタビューに、貨物が急に減り産業が重厚から軽量に移ったやうだと答へた記事も今でも覚えてゐる。あの頃、京浜東北線の沿線では田端操、王子、北王子、赤羽、川口、蕨、大宮操が貨物取扱駅だった。一方で武蔵野線が開通し、新座(タ)、越谷(タ)が開業し、少し遅れて武蔵野(操)が稼働を始めた。
当時、武蔵野線もいづれ周囲が宅地化し、通勤電車の本数が増えて貨物列車のための第2武蔵野線が必要になるのでは、と心配する鉄道関係者の発言が記事に載ったこともあった。

一月三日(水)
毎日新聞の埼玉版が陸王に因み、埼玉の地元産業を特集した。元日は足袋、三日は煉瓦だった。(完)

(見沼代用水、その七)へ (見沼代用水、その九)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ