六百五十九、右翼と左翼(これまでの認識と調査後の変化)乙、松本健一氏(その四)「日本の失敗・「第二の開国」と大東亜戦争

平成二十七乙未
二月二十二日(日) 第一章日米の仮想敵国
アメリカがヨーロッパによって文明国とよばれるようになったのは、一八九八年(明治三十一年)の米西戦争に勝ち、スペイン領だったフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得したときのことだった。なお、アメリカはその年、ハワイの併合もおこなっている。

で始まるこの書籍は続けて
日本がヨーロッパによって文明国とよばれるようになったのも、一九〇四−〇五年(明治三十七−八年)の日露戦争に辛うじて勝ち、(中略)からだった。

だから岡倉天心の
『茶の本』には、こう書かれている。「彼ら(西洋人)は、日本が平和な文芸にふけっていたころは野蛮国とみなしていた。しかし、日本が満州の戦場に大殺戮講堂をおこしてからは、文明国とよんでいる」、と。

第一章の最後は次のように書かれる。
アメリカの「対支二十一カ条の要求」に対する不同意というのは、それではアメリカの中国における利権は失われてしまう、中国での機会均等を断固として要求する、という帝国主義的な論理であった。

二月二十二日(日)その二 第二章発端としての「対支二十一カ条」
大東亜戦争(一九四一−四五年)は、ある意味で、日本がアジアを植民地化=侵略する帝国主義的な戦争であったが、同時にそれは他の先進列強(英・仏・米・蘭)などから植民地を奪ってくる帝国主義「間」の戦争であり、そういった戦争の二重性はまさに「対支二十一カ条の要求」に端を発するものであったからだ。

ここまで同感である。米ソ冷戦が終結して以来、米英仏は正しく日独伊は間違つてゐたといふ偏向した主張が西洋猿真似学者と偏向マスコミに現れた。あの戦争は帝国主義どうしの戦争である。日本が正しかつたといふのは間違ひだが、米英仏が正しかつたといふのも間違ひである。
大熊重信政権が中国に要求した二十一カ条は、(1)青島のみならず山東省におけるドイツ権益の継承、(2)満州の租借期限延長、(3)漢冶萍(かんやひょう、鉄鉱山)の共同経営などを主とするものだった。つまり(中略)ヨーロッパ帝国主義における当時のテリトリー・ゲームのまったくの踏襲といっていい。
ところが、この(1)号から(3)号までの項目は、他の先進帝国主義列強もやっていることだから、日本の占有権として認めてもいい、というのがアメリカの立場だった。しかし(中略)中国全土における日本人警察官の配備や、中国軍の指導権を日本に与える、といった要求(希望条項)は認められない、とアメリカはいったのである。なぜなら、それは中国全土に日本の支配権を認めるもので、後から中国に進出した帝国主義国アメリカの権益をいちじるしく疎外する、というわけだった。


さて、大正デモクラシーの立役者だつた吉野作造について
吉野作造の主張は、要約すれば、帝国主義のテリトリー・ゲームも国際「間」で決めたルールどおりにやれ、ということだろう。(中略)改めていうが、吉野作造は帝国主義国が自国発展のために、領土を拡張し資源を獲得するテリトリー・ゲームを展開することは党善のことである、と考えていた。

二月二十二日(日)その三 第三章アジアの帝国主義
第一次世界大戦のときに日本がドイツに与えた最後通牒(八月十六日付)には、青島をふくむ膠州湾を、「支那に還付の目的」によって日本に引渡すべし、と書かれてあった。
ところが
十一月九日付の『東京朝日新聞』の「青島陥落の結果」という記事によれば、この最後通牒の原文には(カタカナ略)(Eventual restoration)とある。つまり、正確には「結局支那に還付の目的」によって日本に引渡すべし、と訳すべきなのだ、と同期時は解説するのである。いわく、「特に友邦の領土に対して何等の野心を有せざる吾人(朝日紙)は、今開戦前に遡りて最後通牒の文句を云々するの必要なしと雖(いえど)も、(中略)以上の誤りを訂(ただ)しおく」、と。

朝日紙は領土に野心がないと言ひながらずつと占領を続けるよう世論を誘導する。今の朝日新聞とまつたく変らない。平和を唱へながら社会を破壊し拝米新自由主義にしようとするのだから。
中国のナショナリズムが明確に反帝国主義・抗日運動としてあらわれた最初のものが、五・四運動(一九一九年)である。そして、この運動を思想的に引きとり日本帝国主義を批判したのが、大正十三(一九二四)年十一月28にち5に神戸でおこなわれた孫文の講演「大アジア主義」にほかならない。

二月二十二日(日)その四 第四章「日米衝突」のシナリオ
アジア主義者としての中野正剛は、大正十四年(一九二五)の孫文君の去来と亜細亜運動」と題した論文において、日本の大アジア主義者は、欧米とは「別個の日本帝国主義」を主張しているにすぎない、と批判していた。これは、かれが帝国主義それじたいを批判すべき思想としてアジア主義を考えよう、としていた痕跡を物語っていよう。

ここまで完全に同感である。ところが松本氏はこのあと突然、
それから十七年後に大東亜戦争の戦端がひらかれたさい、中野は「国民は如何に闘うべきか」(昭和十六年十二月十七日)と題した演説において、次のようにのべたのだった。

として戦意を鼓舞する演説を批判してゐる。しかしこれは松本氏が間違つてゐる。戦争を始めるかどうか未定の段階での演説であれば重要である。既に開戦した後の演説は戦意を鼓舞する以外にないからである。そのことは松本氏も
他に選択の余地はあったか、といえば、まずなかった。むろん、だから大東亜戦争は肯定されるべきだ、とわたしが考えるかといえば、そうではない。(中略)しかし、あの大東亜戦争が間違った戦争であることと、日本が幕末以来ヨーロッパ文明すなわち帝国主義への道すじを後から追いかけざるをえなかった歴史的選択とは、問題がべつなのである。

として司馬遼太郎が、大東亜戦争を「愚かな戦争」とよんだが、日本がヨーロッパと同じように帝国主義への道すじを選択せざるをえなかつたことを紹介する。これは司馬遼太郎の意見だけではなく松本氏の意見でもあらう。次に丸山真男について触れ
丸山真男も幕末における日本が「西洋文明」を選択して帝国主義化せざるをえなかった、という歴史認識においては、ほぼ共通していた。ついでながら、丸山は帝国主義化した日本が、それにもかかわらず十分近代化していなかった(中略)ゆえに大東亜戦争の過ちをひきおこした、と考えるのである。

一番正しいのは中野正剛である。帝国主義それ自体を批判した。二番目に間違つたのは司馬遼太郎と松本氏である。帝国主義化を肯定した。一番悪いのは丸山真男である。帝国主義化が不完全だつたといふ。超帝国主義者といつてもよい。

二月二十二日(日)その五 第五章満州事変というファシズム
満州事変が勃発したのは、昭和六(一九三一)年九月十八日のことである。(中略)もちろん、この満州事変より十数年まえに青島占領がなされ、ついで「対支二十一カ条の要求」がおこなわれていたことを考えるなら、日本帝国主義の中国侵略はたとえ満州事変がおこらなくとも基底の事実だった、とみなすことができるだろう。

ここまで同感である。しかし前者は
日本政府が正式に決定した制作であった。しかもそれらは、イギリス政府が不快感をもってながめアメリカ政府がいちじ反対を唱えながらも、結局は欧米帝国主義列強によって容認されたものであった。

ここで帝国主義そのものに反対するのか欧米列強の帝国主義に容認されたものならよいのかといふ、中野正剛や私と、司馬遼太郎や松本氏との意見の相違が明らかになる。左翼は帝国主義そのものに反対するし右翼も欧米列強の帝国主義に反対するから、ここで左翼と右翼が統合が可能になる。

二月二十二日(日)その六 第五章の後半以降
第五章の後半以降は、前に石原莞爾を調べたときに明らかにしたので重複は避けたい。満州事変の前に張作霖爆殺事件があり、満州事変はそれと連続してゐるし東京の永田鉄山が予め大口径砲を関東軍に送つたことと、本庄司令官が立案段階で飛行場の占領も加へるよう指示を出したことから決して板垣征四郎と石原莞爾が勝手に行つたことではない。石原の責任に帰す理由は石原が西洋文明に服さない大アジア主義者だから戦後にGHQが悪者にした。それ以外に考へられない。
松本氏の主張にはもう一つ欠陥がある。世界大恐慌で特に東北地方の農村は大変なことになつた。ところが政治家は有効な政策を取らなかつた。そのことを無視して昭和五年以降の歴史は語れない。(完)


(國の獨立と社會主義と民主主義、その百十九)前へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百十九)次へ

メニューへ戻る (甲)へ 次へ