百四十、石原莞爾(その一)東亜連盟と浅沼稲次郎

平成二十二年
十月十二日(火)「戦後歪められた理由」
これまで石原莞爾については悪い印象を持っていた。満州事変を起こし日本を戦争に巻き込んだ、二・二六事件ではエリート参謀として反乱軍を鎮圧した、戦後に自分も戦犯にしろとGHQに言った、等々。
しかし調べてみるとまったく違っていた。嘘の情報が広まった理由は石原莞爾の作った東亜連盟に関係していた浅沼稲次郎が、戦後に社会党訪中団長として講演した「米帝国主義は日中両国人民の敵である」という言葉に表われている。石原莞爾の主張はまさに、日中が共同してアメリカに勝つというものであった。
このようなものが占領下の日本で許されるわけがない。マッカーサーは東亜協会に解散を命じた。癌の末期患者だった石原はまもなく亡くなった。東亜協会は全国にかなりの会員がいたが分散していった。そして拝米勢力によって石原莞爾の悪い印象が六十五年間ばらまかれた。

十月十三日(水)「東條英機より悪いマッカーサー」
石原は東條英機と仲が悪かった。東條のことを東條上等兵と本人にも聞こえるように言い、東條は上等兵としては優秀だと評した。だから東條内閣が発足するや徹底的に弾圧された。まず東條が陸軍大臣のときに石原は予備役に回された。昭和天皇は、これでいいのか、と書類を差し戻したが、東條は再度提出して通した。予備役の後、立命館大学国防学研究所の所長に就任したが東條の圧力で辞任した。書籍の出版も妨害された。東亜連盟に逮捕者も出た。憲兵や警察に尾行された。しかし、マッカーサーは東條より悪い、と石原は言う。東條でさえしなかった東亜連盟の解散をマッカーサーは命じたからであった。

甘言には裏がある。マッカーサーの政策にも裏がある。農地改革と財閥解体と民主化は表である。文化の破壊は裏である。パイプをくわえサングラスをかけ飛行機を降りる。あんな三文芝居に日本の国民はだまされてしまった。否、悪いのは新聞である。戦前戦中はさんざん軍部に媚び戦後はアメリカに媚びた。そしてこれ以降日本は文化不連続国となった。

十月十五日(金)「東條英機の三つの責任」
東條英機には開戦責任、敗戦責任、弾圧責任の三つがある。このうちの 後二つの責任は取っていない。このような男を靖国神社に祭るのは適切ではない。
靖国神社は複雑である。(一)神仏分離だから日本の伝統に反している。伊勢の神宮は特例である。その他の神社は分離してはいけなかった。(二)靖国を崇拝する国民感情は尊重しなくてはいけない。(三)大きな敷地と建物にはそれ相応の伝統が必要である。靖国には伝統が欠けている。(四)西洋文明が優勢の現代において新規に宗教施設を作ることは得策ではない。

靖国に賛成すると右翼、反対すると左翼という単純なものではない。心の裏側は反対、更にその裏側は賛成と複雑な全体を考えれば靖国神社の代替施設は作るべきではない。その靖国に東條が祭られている。これはよくない。東條には二つの責任を取って退去していただき、天皇、首相、誰もが参拝できる社とすべきだ。

十月十六日(土)甲「曹操と張学良」
満州事変の原因は(一)日露戦争、(二)二十一ヶ条、(三)張作霖爆殺事件である。

満州はロシア軍が占領していた。そして日露戦争で多数の犠牲者を出した。これで日本は満州から引けなくなった。外国に出兵してはいけないといういい例である。満州の荒野で英霊が泣いている、という表現で権益を手放せなくなった。そのように世論を誘導した新聞も悪い。

二番目は二十一ヶ条である。あれで中国は対日感情を極めて悪化させた。しかし二十一ヶ条は孫文が日本に示したという。満州の日本統治も孫文が提案していたという。孫文は何回もの失敗にも負けずに清朝を倒した。偉大な人だとこれまで思っていた。しかし実際には革命政府の主導権を握ろうと議会派を見捨てたり袁世凱と同盟したり軍閥と組んだりといろいろな動きをしている。孫文のどこが正しくどこが間違っていたかは今後精査する必要があろう。石原莞爾は二十一ヶ条について、あんなものを受け入れるなんて、と袁世凱を批判している。

三番目に張作霖爆殺事件である。三国志の曹操は今でも評判が悪い。それは陶謙に父を殺され、報復として徐州の住民を大虐殺したからである。張学良が曹操と同じ気持ちになるのは当然である。もはや日本には満州から撤退するか満州に親日政府を作るか二つに一つしか残されていなかった。石原が関東軍に赴任したのはそんなときだった。

十月十六日(土)乙「五族共和の誤り」
張学良軍は二十数万でそのうちの一部は精鋭軍で戦車、重火器、飛行機を持っている。関東軍は旅順と南満州鉄道の守備隊だから一万人で戦車、飛行機は持っていない。さっそく東京の永田鉄山に大口径の大砲二門を送ってもらい精鋭軍のいる北大営に照準を合わせた。満州事変は板垣征四郎と石原莞爾が司令官に知らせず独断で実行したと今でも言われているが、これは間違いである。まず北大営と奉天城を攻撃する計画を立てたが本庄司令官によって飛行場の占拠も加えられている。
石原は満州の直接統治を最初は考えていた。理由は現地人に近代政府の運営は無理だという。ここまでは欧米人と同じ発想である。しかしやらせてみるとうまく行くので現地人による政府を考えた。当時の中国各地の軍閥はひどいもので住民から徴収した税金の八割は戦争に使っていた。石原にとり満州事変は住民のためという意識があった。だから日本人の官吏に高給を払うことに反対した。関東軍は政治に口を出さないよう主張した。
満州の未開発の土地に日本人や朝鮮人を入植させ五族共和を図った。しかし石原思想の過ちはこの五族共和にある。これは当時の西洋思想の誤りでもあった。西洋科学の発展の結果、各国は人口増加に見舞われた。石原も人口増加を満州で吸収させようとした。人口増加はその国の内部で解決すべきだ。そうしないと地球は滅びる。地球温暖化が起きる前の満州で石原がそこまで考えなかったのはやむを得ない。

日本の権益を返還し現地人による良い政治を行えば蒋介石はなびく。そして日中満でアメリカと対峙する。これが石原の戦略であった。

十月十七日(日)甲「革命未だ成らず」
孫文は亡くなる四ヶ月前に神戸で「大アジア主義」と題して講演した。日露戦争のとき孫文は欧州にいた。日本海海戦でロシア艦隊が全滅したと報道されるや全欧州の人民は父母を失った如く悲み憂えた。そしてそれは日本の同盟国イギリスでも同じであった。東方の文化は王道で仁義道徳、西方の文化は覇道で功利強権。孫文の講演は以上のような内容であった。
戦後の日本ではアジア主義者は、石原莞爾といい孫文といい悪い情報が流されている。孫文が二十一ヶ条を作ったというのもその一つであろう。孫文がその一部を日本に示したとしても、残りは袁世凱が作ったものであった。

十月十七日(日)乙「中山紀念堂」
今年三月に香港と広州に行った。香港は二年前に行ったので本当は上海か成都に行きたかったが、我が家の政治局常務委員会(妻と子供で構成)が勝手に決めたので私は黙って付いていった。
安い中華航空を使ったので台北経由だった。香港では一人一泊二七米ドルの安いホテルに泊まった。広州の中山紀念堂に行った。大きな銅像の前で子供に孫文の説明をした。広州は私は二回目、妻や子供は初めてである。なぜ二年前に行かなかったかというと当時は産経新聞を安いというだけの理由で購読していた。拝米反中の記事が毎日載るから、無意識のうちに反中になってしまう。

私の父は戦前戦中は大東亜省の留学生で北京にいた。だから我が家は親中と思われがちだが偏向記事を毎日読んでいると拝米反中になってしまう。一般の家庭だったら十倍は影響がある。産経だけではない。読売もかつての産経くらい悪化した。毎日、朝日も主筆が拝米でかつての読売くらいに悪化した。

十月十七日(日)丙「アジアの学問」
昨日は成都で反日デモがあった。半分は前原発言と枝野発言への反発で、残りの半分はノーベル平和賞を服役中の活動家が受賞したため反日デモに名を借りて騒いだ可能性が高い。

十月十八日(月)「民主帝国主義」
ノーベル賞はよくない。西洋は地球を破壊する科学を選択した。その前提で学問は進んでいる。しかしアジアはそのような選択を完全にはしていないから、先に発見したからといって、西洋人の発明者や発見者を認める必要はない。

民主主義は良い政治を行うための手段の一つに過ぎない。民主主義を目的にしてはいけない。戦前のイギリスやフランスは海外に広大な植民地を持っていた。しかし国内は民主主義だった。帝国主義と民主主義は共存できる。西洋の猿真似で民主主義を叫ぶと帝国主義に陥る。民主帝国主義とでも呼ぶべきであろう。


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