六百五十九、右翼と左翼(これまでの認識と調査後の変化)丙、葦津珍彦氏(その一)「大アジア主義と頭山満」
平成二十七乙未
二月二十五日(水)
葦津珍彦氏
葦津珍彦(あしづうずひこ)氏は筑前筥崎宮の社家の一つに生まれ、学生時代はクロポトキンやバクーニンらの無政府主義の社会主義に傾倒した。後に父と同じ神道に転じた。父の経営する社寺工務所を継いで神社建築業。戦時中はナチスや東條内閣を批判して逮捕されることもあつた。終戦直後に会社を解散し神社本庁の設立に尽力。神社新報の主筆となつた。
葦津氏の「大アジア主義と頭山満」を読むと、偏りの無い良書である。このような良心的な言論が世の中から抹殺されることは日本の損失である。米ソ冷戦が終結した後は、日本の言論は大きく偏向してしまつた。欧米の植民地主義を賞賛する。その偏向ゆえ昭和六十年辺りまでの言論は重要とも言へる。なほ葦津氏にも小さな偏向はある。神道の立場から石原莞爾らを無視する。しかしこれは米ソ冷戦終結後の日本の言論界の偏向に比べればはるかに小さい。
二月二十六日(木)
第一章明治維新と大アジア主義、その一(マリヤ・ルズ号事件)
かれら白人は、武力を背景にして、阿片を強行輸出し、これを拒めば、軍事的猛爆を浴びせかけて進出して来たのである。かれらが、アジアの地に渡航してきたのは、もともとアジアを征服せんがためなのであって、アジア人と対等有効の高裁をする考えなのではない。
ここまで同感である。一昨年辺りだらうか或る偏向マスコミに、ペリーが日本に来たのは日本を民主化するためだつたと書く人がゐて唖然とした。黒船が来たため幕末以降混乱が続きその行き着く先が大東亜戦争である。それなのに黒船を有り難がる。とんでもない連中である。
かれらが、アジア人を対等の人間と考えなかった何よりの証拠には、シナの沿岸都市(マカオなど)で、奴隷貿易が公然とおこなわれて怪しまれなかったという一事をみてもわかる。
東洋において、奴隷貿易が禁ぜられるにいたったのは、明治五年(一八七二)以後のことである。これはアジア人も日本人も銘記しておくべき歴史である。日本に維新が行なわれて、日本政府が、断固たる決意をしめして、はじめて奴隷船の横行がなくなったのである。
として横浜港に停泊中の南米の商船マリヤ・ルズ号の事件を挙げる。
明治五年のこと、横浜港に滞在中の南米ペルーの商船マリヤ・ルズ号の船内に、約二百三十人余のシナ人奴隷が監禁されていた。その監禁中の奴隷の一人が、船中での残虐な虐待にたまりかねて、救いをもとめて脱走して来た。この時の日本政府の外務卿は、副島種臣であったが、断固としてこの奴隷船の船長を裁判にかけてシナ人奴隷を解放してしまった。これはそのころ、非常な国際紛争をひきおこしたが(中略)日本の勝利に終わった。明治五年といえば(中略)国際的には奴隷禁止の原則は、すでに公認されているはずの時代であるが(中略)アジアにおいては、マカオを中心に公然と奴隷貿易が行なわれており、数千万人の奴隷が売買されていた。日本の維新政府の強硬手段によって、それが解放されるにいたって、はじめてマカオの奴隷市場も、さびれることになったのである。(中略)横浜在留の列国領事の中には、日本政府が白人の外国船長を裁判する権限はないとか、日本政府の越権は許せないなどと主張するものが多かった。そのため裁判は非常に難航したが、(中略)ついにアジアの公然たる奴隷市場を解放させるという輝かしい仕事をすることができたのである。
三月一日(日)
第一章明治維新と大アジア主義、その二(征韓論)
征韓論者の第一人者は西郷隆盛で、例のマリヤ・ルズ号事件の副島種臣や板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などが、その有力な同志であった。(中略)日韓両国は固く結合しなければ到底欧米列強に対抗して行けないとの考えがある。(中略)ところが韓国李王朝の政権では、そのような時局認識が乏しく(中略)西郷みずからが、韓国に渡って談判しようということになった。これを征韓論という。(中略)直ちに戦争に訴えるとか、韓国を占領せよというのではない。それは西郷という人の本来の思想から考えてもわかることである。(以下略)
文明とは道の普く行はるるを言へるものにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何をか文明と言ひ、何をか野蛮と言ふやむ、少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の国に対しては慈愛を本とし、懇々説論して開明に導くべきに、然らずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりと言ふべし。(『大西郷遺訓』(以下略))
これが西郷の西洋文明批評である。かれはその後の(中略)江華島事件について、(中略)日本海軍の武力行使を道義的でないと非難している。
岩倉、大久保が洋行から帰国し西郷の案を葬る。岩倉、大久保は西郷らが政府を辞任したのち台湾問題が起きると武力を行使し、そして江華島事件である。岩倉、大久保は平和主義者ではなく欧米の感覚で征韓論に反対する欧化主義者である。
三月二日(月)
二つの潮流の分岐点
岩倉・大久保は韓国や清国の問題を考えるときにも、たえず欧州を見て、欧米列強の干渉をおそれねばならないと信じている。欧米の干渉が干渉がなければ武断政策でもいいのだ。(中略)それがやがて明治の外交思想史に長く二つの潮流となって行くものであるが、西郷の征韓論は激しい国論をまきおこした。
そしてこの国論がやがて、自由民権論や大アジア主義の源流となる。
ここまで同意見である。岩倉、大久保の潮流はその後、日英同盟を結んだ時点で、あるいは日露戦争に勝つた時点で西洋列強の仲間入りへと堕ちてしまつたがその萌芽はこの時点であつた。
西郷の流れのうちの自由民権論は岩倉、大久保に反対するための戦術であるとともに国民のためといふ大目的でもある。後に西洋の無政府主義や共産主義の思想が入ることで右翼と左翼に分解した。
三月三日(火)
玄洋社、屈辱条約に反対す
明治十八年に組閣した伊藤内閣の外相井上馨は条約改正問題について閣議で次のように述べた。
けだし本大臣は、思へらく、これに処するの道、ただ我が帝国及び人民を化して、あたかも欧州邦国の如く、欧州人民の如くならしむるにあるのみ。即ちこれを切言すれば、欧州的一新帝国を東洋の表に造出するにあるのみ。
とんでもない発想である。しかも井上の進めた条約改正案は外国人を日本の裁判所の裁判官に任命するといふものだつた。
三月三日(火)その二
孫文
玄洋社はその後、金玉均、孫文、ビバリ・ボースを支援する。このうち孫文については辛亥革命が成立の後に、袁世凱が革命政権との妥協を申し入れてきた。
頭山満は、寺尾博士(日露戦争の主戦論者として有名だった東京帝大の国際法学者。中国革命援助のために帝大教授の職をなげうって南京に来ていた)とともに、孫文を訪問して、袁世凱との妥協に反対の勧告をした。
その後、袁世凱は革命を裏切り孫文は日本に亡命した。翌年日本は
袁世凱に対して、悪名高い二十一カ条条約を提出した。(中略)この二十一カ条条約は、たしかに大隈・加藤が以降の失敗だった。北京政府は、これを列国に通報して外国の援助をもとめるとともに、これを国民に訴えて排日運動を煽動した。(中略)この二十一か条条約についで問題となったのは、大正八年の五・四運動である。この五・四運動は、中国の反帝国主義反日闘争のスターとして、今日の歴史家のもっとも注目するところである。
さうなつた原因は
大隈内閣の二十一カ条要求いらい、その中国ナショナリズムの攻撃目標が、ヨーロッパの列強よりも、むしろ日本一国に集中してきたことは、日本政府の外交の拙劣にもよるものであったが、日本の国民感情を刺激したことも少なくなかった。老巧なイギリスなどは、一時的には反英運動の猛攻撃を浴びせかけられたこともあったが、その攻撃をすべて日本へ天下してしまって、難局を切り抜けて来た。
として香港、九龍がいまだにイギリスの植民地である(この書籍が著作された昭和四十年当時)ことを挙げる。日本国民は外交の拙劣さに対してもつと怒りの声を上げたほうがよい。
三月四日(水)
満州問題と孫文
孫文が満州を日本に任せようとしたことは今から二十年ほど前だらうか新聞に載つたことがあつた。二十年前は左翼が左翼崩れ(或いはサヨク)になる途上なので我が家ではまだ朝日新聞を購読したと思ふ。しかし孫文が満州を中国とは思つてゐなかつたことと満州を日本に任せようとした話は葦津氏の「大アジア主義と頭山満」に載つてゐる。戦後の日本の言論界が葦津氏に右翼のレッテルを貼つて葬つたことがよく判る。
満州については袁世凱に二十一カ条を突きつけたように中国の領土である。日本は当時の列強の言ふところの特別権益であつた。そのことを踏まへて孫文の思想を読まないと日本と中国の将来によい影響を与へない。日中両国は孫文の思想に帰つて親善を深めるべきだ。
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百十九)前へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百十九)次へ
メニューへ戻る
(乙)へ
次へ