六百五十九、右翼と左翼(これまでの認識と調査後の変化)乙、松本健一氏「思想としての右翼」(その三)

平成二十七乙未
二月九日(月) 第二章第五節(国家改造運動の成立)
永井柳太郎はかつて『平民新聞』を愛読し、北一輝や下中弥三郎や中里介山や尾崎士郎などとともに、平民社に出入りしたこともあった(以下略)。そして永井が「民本主義の大精神」つまり大正デモクラシーによって、資本主義体制の矛盾に淵源する社会問題の解決と民衆の不安の解消とができるとしたことに対して、デモクラシーは資本主義の補完としての役割をもつだけでその矛盾を除去することにはならない、と考えるものたちが、同じく平民社(社会主義運動)周辺から生まれ出ていたことに、ここでは注目したいのである。
として大正七年の老壮会を紹介してゐる。
こんにちでは右翼の源流に位置すると定義づけられるしかない老壮会は、しかし、遠山満の玄洋社や内田良平の黒龍会とは、明らかに一線を画した集団であった。

これについて『右翼思想犯罪事件の綜合的研究』(昭和十四年)は
「是等(玄洋社・黒龍会系の旧右翼に連なる)の団体の活動は、反デモクラシー、反社会主義運動に終始し、現状維持に堕し、甚しきは資本家又は政党より資金を仰ぎ、是等の御用団体用心棒と化し或は暴力団に化するものもあって、革新日本の建設を目指す革新運動の源流となし得ない」、と。
では、「革新日本の建設」をめざしうる団体としては何か、と問うて、右の書はまず第一に老壮会をあげるのである。


二月十一日(水) 第二章第五節(国家改造運動の成立、その二)
老壮会の設立世話人は満川亀太郎である。かれは日露戦争のころは中学生で、多分に人道主義者であった。(中略)のちに猶存社の三位一体とよばれる北一輝と大川州名詞満川亀太郎が、当時いずれも『平民新聞』の愛読者だった(中略)この三者のうちでは、北がいちばん社会主義であり、満川のばあいはむしろキリスト教的人道主義にちかかった。
(中略)ところが、かれは日刊『平民新聞』(明治四十年)に、陸軍御用をつとめている商人の宣伝広告が載っていることに疑問を感じて、社会主義と一線を画すようになったという。


老壮会の会員には
国家社会主義者の(中略)や、社会主義者の堺利彦・(中略)や、農本主義者の(中略)や、大アジア主義者の(以下略)。
思想的ヴェクトルをようやくしていえば、社会主義とナショナリズムということだろうか。その点で(中略)ナショナリズム一辺倒だった玄洋社・国龍会という右翼の本流から外れているのである。


第二回の会合ではデモクラシーをどうおもうかを話し合つた。これについて
平民社に出入りし、社会主義シンパだった嶋中がリンカーンの言葉をひいて、民主主義の何等憂うるべきでなく、それは当然わがくににとりいれるべきだ、と主張した。(中略)これに対して、大川がわがくにには「独特の国家観」があるのであって、民主主義はこの皇室中心の国家観に抵触するものである、と反論した。

まづ民主主義じたいは日本でも古来からある合議による決定に近い。しかし民主主義は少数派を切り捨てるからそれより劣る。「わがくに独特の国家観」はよくない。一国だけの国家観は永続できない。非西洋が連帯し非西洋の国家観を築くべきだ。皇室中心といふのは幕末に出たものでありその結果が先の戦争であつたことを思へば皇室は幕府を任命するものであつて幕府そのものではないといふ立場が一番よい。

二月十三日(金) 第二章第五節(国家改造運動の成立、その三)
嶋中とは嶋中雄三である。今試しにインターネットで検索すると
下中弥三郎と無二の親友。1919年、下中が創設した教員組合啓明会の世話人になり、自らも安部磯雄らと「文化学会」を旗揚げした。労働組合同盟会の結成に尽力。1920年「日本社会主義同盟」を結成した際、荒畑寒村、大杉栄、堺利彦、山川均らとともに発起人として参加。1924年普通選挙法に備へて青野季吉、鈴木茂三郎、市川房枝、賀川豊彦らと無産政党の組織化を準備する「政治研究会」に参画。1924年、下中、安部、秋田雨雀、菊池寛らと「日本フェビアン協会」を設立。1926年の社会民衆党結成にさいして安部とともに主導的役割を果たす。1929年東京市会議員選挙に2区(小石川区)から初出馬、東京全市で最高の得票で当選した。1931年下中、赤松克麿らと、国家社会主義運動懇談会に参加。運動の決裂後、下中らと新日本国民同盟を結成

とある。
満川が大正八年五月に『何故に過激派(ボオルシエビズ)を敵とする乎』と題した小冊子をだし(中略)その趣旨は十月革命を危険視すべきでない、というものだった。この要旨に賛同したのが、下中や嶋中などだった。(中略)けれど、大川は「『過激派』の存在は現在の資本主義の倒壊するに役立つであめうが、決して我々の最高の理想でないから、之に対する新しい反動が起って来るに相違ない」と、満川に反対した、という。
(中略)満川はボルシェビキに対する好感を抱きつづけたぶんだけ、のちに大川から思想的に遠ざかり、北に近づくことになった。


こののち満川と大川を中心に実践に移さうとするグループが現れ「猶存社」と命名した。
猶存社設立にあたって、満川は北をおもいだすばかりでなく、日本によびもどそうと考えた。『三国干渉以後』にいう。「私は心ひそかに北一輝君を上海から呼び戻し(中略)国内改造の機運を整調指導して貰ふより外に途がないと考へてゐた。氏ならば曾て社会主義者として官憲の迫害圧迫を嘗めて来たが、自己の信念を操持すべく、日露戦争に反対せし幸徳堺の徒と分れてしまつた。今は所謂社会主義者でなく、熱烈なる国家民族主義者である」、と。

左翼と右翼の分岐点が日露戦争といふのはあり得る。このとき戦争に反対する理由は人道、国境を越えた労働者の連帯など穏健で正統なものである。しかし幸徳の場合、新たに作つた新聞社が発禁で潰され過激化した。
北が所謂社会主義者でなく国家民族主義者であるという評価は、かれが大川のように「皇室中心主義」になった、という意味ではない。満川がつづいて、「北君は所謂社会主義者を嫌ってゐたが、同時に皇室中心主義といふことも嫌つた」と書いているから、だ。

北が所謂社会主義者を嫌つた理由は何だらうか。社会主義者が嫌はれる理由を克服すれば左翼と右翼は再統一できる。

二月十四日(土) 第二章第六節(黒龍会と社会民主党の両極分解、その一)
黒龍会と社会民主党とは、同じ明治三十四年、すなわち二十世紀幕開けの一九〇一年に結成された。このふたつの組織が、近代日本の右翼と左翼の対極をかたちづくっている、とは、こんにちの定説である。(中略)この組織名は、黒龍会の主幹であった内田良平と、社会民主党の実質的中心人物であた幸徳秋水という、人物名に置き換えうるだろう。(中略)ところで、右翼左翼の定義はおたがいがそう定めたのではなく、支配階級がそう定めたものであり、この右と左を適宜切り捨てることによって権力を維持するのが、近代日本のリベラルにほかならなかった。

明治三十五年に内田が中心になつて設立した日露協会は幸徳も賛成者に名を連ねた。
とはいえ、わたしの調べたかぎりでは、幸徳の名が『黒龍』にのるのは、この日露協会賛成員としてだけである。かれの師兆民が黒龍会の客員として登録され、かれの兄弟子である小山久太郎(後出)が同会員になっていることからすれば、このとき幸徳が黒龍会と岐れていることは歴然としている。

このとき分岐したといつてもそれは日露戦争に賛成か反対かである。日露協会の設立趣旨は
内田が伊藤博文に語ったところによれば、「平和論者は平和の道を尽し、開戦論者は開戦の道を尽せば、其の行き尽す所でおのずから帰一するものと信じます」(『国士内田良平伝』)

幸徳は唯物論に堕してはゐなかつた。

二月十五日(日) 第二章第六節(黒龍会と社会民主党の両極分解、その二)
小山久之助は安政五年信州小諸の生まれで、兆民の仏学塾で学んでいる。(中略)兆民門下とすれば幸徳秋水の兄弟子でもある。かれは自他ともに、兆民の一番弟子を称していた。(中略)かれは兆民と同じ病気(ガン)に罹り、兆民より先に死んでしまっている。(中略)兆民の死は、この二カ月後の十二月十三日のことである。
兆民は病床で『一年有半』の筆をとり、この稿を幸徳秋水にわたす。(中略)次の日これを携えて東京に帰り、「同門の先輩小山久之助君に諮る、小山君亦大に余の意を賛す」。よって秋水は、博文館の大橋新太郎−かれも日露協会の賛成者に名をつらねている−に発行を依頼するのである。(以下略)
小山が逝ったとき、秋水が『万朝報』に掲げた哀悼文には、「彼は実に多血多感の人物であった。其真率、無邪気なることは真に小児の如くであった」とある。これを読んで、病床の兆民は涙を流した。


兆民と秋水の思想の相違はこの時点では日露戦争だけである。だから
兆民は小山とともに国民同盟会に入会し(中略)この国民同盟会(近衛篤麿が中心)は強硬外交路線をとり、大陸侵略を主張するものであった。(中略)秋水は(中略)これに入会するのは「自由平等の大義に戻(もと)る所なき乎」と兆民に尋ねた。これに対する兆民の答えは、次のようであった。「露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし。敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅し内政を革新することを得ん、亦可ならずや」、と。

一方で兆民の亡くなる八ヵ月前に秋水は木下尚江ら六名で
かれらは社会党としては世界最大の規模をもっていたドイツを手本に、社会民主党をつくることに決めた。(中略)歴史を階級闘争の観点のみからみれば、民族国家も資本家の支配するものである。ここでは、国家は資本家のものとして否定されねばならぬ。戦争も同様である。ここから、幸徳のナショナリズム全否定と、非戦論が導きだされてくるのである。

まづ欧州を手本にした時点で、左翼への分裂は確実になつた。国柄の相違を国家と呼ぶなら国家は否定してはいけない。その意味では欧州全体で一つの国家と呼んでもよいから欧州では国家を否定する理論も容易に出よう。しかしアジアがそれを真似してはいけない。政府は否定してもよいが国家は否定してはいけない。或いは幕府は否定してもよいが国家は否定してはいけない。その区別に気付かなかつたことが左翼と右翼への分裂といふ不幸な出来事になつた。

二月十五日(日)その二 第三章第一節(右翼思想研究の正念場)
日本浪漫派とか、農本主義者とか、アジア主義者とか、超国家主義者とか、いわゆる右翼に位置する思想家を扱うことは、かつて思想史上のタブーであった。このタブーからわたしらが解き放たれはじめたのは、六〇年安保前後のことである。
この解放の魁となった論文が、竹内好の「日本のアジア主義」に至る諸論であり、橋川文三の『日本浪漫派批判序説』であることは、衆人の認めるところであろう。


ところが松本清張は相変はらず右翼をタブー視し続けた。
たとえば、松本清張は『北一輝論』(講談社)に、宮崎滔天のことを、次のように書いている。「宮崎滔天は、いうまでもなく玄洋社の遠山満の弟分格であり、『支那浪人』とか『志士』の名でよばれ(中略)日本政府や政界指導者の手先となって外国侵略の素地をつくり、あるいは彼地で工作して騒動を起し(中略)いまでいえばCIA的性格だが、CIAと違って政府機関でないだけである。宮崎滔天らが『革命評論社』なる看板を掲げたのも、中国の実力を弱める革命運動を援助するための名目であって、真の『革命』とは何の縁もなかった。(中略)日本の革命党平民社と交流しているのは幸徳らの動きをスパイするためだったかも知れない」、と。

松本健一氏はこの清張の主張をほとんど暴言にちかいとする。私も同意見である。と同時に清張と同じ感覚の連中が社会破壊拝米新自由主義反日(自称朝日)新聞など言論界にまだ多く存在してはゐないか。右翼にも体制に組み込まれてきたといふ欠陥がある。これについて
右翼が体制にくみこまれて、思想的に退廃しかかると、それを否定するようにして次の右翼が登場してきたようにおもわれる。頭山満を否定するようにして内田良平が登場し、内田を否定するようにして北一輝が登場し、北を否定するようにして末松太平が登場する、というように、である。これは決して、勢力争いというものでなく、反体制としてあらんとするための、右翼の道統の守りかただった。

二月十五日(日)その二 第三章第十二節(ナショナリズム再評価の流れ)
いわゆる右翼についての研究あるいは評伝が、このところ盛んである。(中略)かつて安田講堂を占拠した全共闘と、二・二六事件における青年将校とを、重ね想ってしまっていたわたしらの世代にとってみれば、これはごく自然な結果なのである。

そしてそれは
全共闘運動の戦後民主主義批判が、思想史的には戦後民主主義が回避してきたナショナリズムの再評価となって現われたことを意味している。

一方で松本健一氏がこの書籍を著した昭和五十一年には
現在における、アジア主義者をふくむ、いわゆる右翼についての研究あるいは評伝のあいつぐ出現は、戦後民主主義の思想としての敗退をこそ語っているのである。かつて福沢諭吉や植木枝盛や幸徳秋水や吉野作造が占めていた位置を、いまでは岡倉天心や北一輝や権藤成卿や橘孝三郎が占めそうな気配さえある。宮崎滔天全集が現在刊行中であり、石原莞爾全集も刊行の緒についたときくから、かれらの復権もそう遠いことではないだろう。

その後、カンボジアのポルポト、中国の文化大革命失敗がありアジア主義は日本から一掃されてしまつた。この前年から貿易黒字が国際問題になりプラザ合意で円高となるや西洋文明が一気になだれ込んできた。そこにはアメリカの内政干渉もあつた。だから石原莞爾は未だ復権してゐない。私が石原莞爾の弁護役を買つて出たのもさういふ経緯からである。宮崎滔天に至つては浪曲そのものが消滅寸前になつてしまつた。


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