六百五十九、右翼と左翼(これまでの認識と調査後の変化)乙、松本健一氏「思想としての右翼」(その一)

平成二十七乙未
一月二十日(火) 第一章(リベラル批判、その一)
次は松本健一氏「思想としての右翼」である。
戦前の日本を支配していたのは右翼だ、という説がある。これは、おもうに、戦後民主主義のつくりあげた神話である。それが神話である所以は、戦後の日本を支配していたのが左翼であるという説を対置してみれば、一目瞭然となろう。左翼は戦後の日本を支配してなぞはいなかった。戦後日本の支配者は、進駐軍であり、その進駐軍と結んだリベラルたちだった。かれらは進駐軍と結ぶことによって、はじめは民主化、のちには右傾化をおしすすめた。左翼は、そのはじめの路線上において、リベラルに利用されただけだったのである。

ここまで完全に松本氏と同意見である。

一月二十三日(金) 第一章(リベラル批判、その二)
戦前も戦後もふくめた近代日本において、権力を握りつづけたのは、右翼でも左翼でもなかった。もしそれらが一時でも権力を掌握しきれていたなら、日本はよきにつけ、あしきにつけ、その思想的旗色を鮮明にしており、その結果、左右翼の思想的激突が生みだされていたろう

ここで、だから中間でよかつたと考へては絶対にいけない。中間が政権を取り続けた結果、戦前の政党はまともな政治をせず国民は軍部に期待するようになつた。昭和四十年代前半まで、国民が学生運動に期待したのと同じ理由である。或いは昭和五十五年辺りまで、国民が革新勢力や労働組合に期待した理由である。

一月二十五日(日) 第一章(リベラル批判、その三)
伊藤内閣の出現が重要な意味をもつのは、(中略)かれが議会制度を敷いて憲法のもとに政治を行なおうと考えるリベラルであったこと、である。

ここで判ることは、リベラルとは西洋の猿真似であり国民のための政治ではない。そして
近代日本の支配階級がリベラルによって占められることになるのは、この伊藤内閣の出現以来のことである。そして(中略)自由民権運動も、体制補完物としての自由党と改新党を生んで終熄することになる。

自由党左派の大井憲太郎らが体制補完物を拒否し大阪事件を起こした。そして
大阪事件の死灰から、内治改良の方策を社会主義的なものに求めようとする酒井雄三郎や幸徳秋水らの動きと、内治改良の方策を対外策のショックから導きだそうとする宮崎滔天や内田良平やらの動きとが、別個のものとして成立してくる。前者がいわゆる左翼となり、後者がいわゆる右翼となるわけだ。

二年前に幸徳秋水を調べて判つたことは、秋水は新聞社を潰されて政府への反感を強めた。そしてアメリカのアナーキズムの影響を強めた。これが秋水を右翼と分離させた。秋水の師匠の中江兆民について唯物論者とする書籍があるが、兆民は文化を大切にするから唯物論ではない。秋水はアメリカの影響で唯物論になつてしまつた。
右翼に革命論がなかった、などというのは、まったくの嘘である。もちろん右翼運動は、その過程で何度も何度も体制にくみこまれたが、体制にくみこまれんとする右翼を頽廃から救ったのは、その時代時代のいわば新右翼であった。たとえていえば、遠山満にとって内田良平は新右翼であり、内田にとって北一輝は新右翼であり、北にとって末松太平は新右翼であった。(中略)右翼革命を象徴する人物が西郷隆盛であり(中略)右翼とは何か、という問題は、あるいは、西郷隆盛とは何であるのか、という問題にほぼ重なるのかも知れない。
遠山と兆民とを繋ぐもの、それも西郷である。(中略)西郷の精神的子孫は中江兆民の自任するところであった。


左翼が西郷を評価することは容易である。つまり右翼と左翼は冷戦の終結した後は、いつでも統合が可能である。

一月二十七日(火) 第一章(その四、ロマン主義)
思想としての右翼といったばあい、そのひとつの軸にロマン主義を設定しないと、どうしても右翼の本質に迫れない気がするのである。とはいえ、極言すれば、近代日本の変革者は、その活動の場が政治の世界であれ文学の世界であれ、すべてロマン的であったということも、一方ではいいうるのかも知れない。

これは正しい。国民のための運動を行ふには国民の感情に即さなければいけない。国民の感情に即すこととロマン主義はほぼ等しい。だから米ソの冷戦が米側の勝利に向ひ始めた昭和六十年辺りから社会党は衰退の連続だつた。そして国民は当時の石原都知事や橋下大阪府知事、更には現在の安倍首相など従来の感覚では右側と思はれる人たちが人気を得るようになつた。
これは労働組合でも同じである。解雇事件など労働争議を抱へると国民の感情と乖離しない。大企業労組や公務員組合は国民と乖離する。これらの圧力を受けたシロアリ民主党や社民党ゴミ溜め議員どもは更に乖離する。選挙のない社会破壊リベラル拝米反日新聞は更に乖離する。

一月二十八日(水) 第一章(その五、農本主義)
右翼におけるロマン主義は、左翼におけるおけるリアリズムとの対抗関係にあったわけだが、では左翼における反資本主義つまり社会主義にあたるものは何か。これは是非ともなくてはならない。そうでないと、右翼はその思想において、資本主義擁護とみなされてしまうだろう。(中略)だが、右翼に反資本主義思想はあった。農本主義が、これである。

私も同感である。農本主義といふより、資本主義が発生する以前の人類が長い間、続けてきた社会である。
反資本主義がなぜ農本という形をとったか。それは、日本の近代化が工業化をめざし、農村から農民を工業の労働力として吸いあげるかたちをとったから、だった。農村の疲弊は恒常化し、資本主義の都としての東京は、農村の搾取によって不健康に肥大化していった。

これも同感である。東京の肥大化は明治維新以降続いたが、私は特に昭和三十年代後半の所得倍増計画と東京オリンピックによつてだと思つてゐた。しかしはるか前からであつた。
橘孝三郎は『日本愛国革新本義』(昭和七年)に、こういっている。
『ご存知の通り只今の世の中は俗に申せば何でも東京の世の中であります。(中略)兎に角東京のあの異常な膨大につれて、それだけ程度、農村のほうはたたきつぶされて行くという事実はどうあっても否定出来ん事実です。(以下略)』
この橘の言葉からは、反西洋主義・反近代主義・反資本主義・反都会主義・反中央集権など、(中略)それら一切の反対概念を背後に、かれがおしだすのが農本主義という思想であった。

そうであれば農本主義に大賛成である。農業の比率が低下した今の世で農本だと難しいといふ経済の問題点だけを考へたが、これらすべてをひつくるめて農本主義と呼ぶのであれば、農本主義に100%賛成である。私が、マルクスは資本主義によつて生じた矛盾の解決法と考へるが、それとも矛盾しない。

一月三十日(金) 第一章(その六、天皇論)
では、農本主義は近代日本にとって全否定たりうるかというと、ここにひとつの重大なアキレスの踵がある。天皇制が、これである。
天皇制は日本農業の核である稲作と、切っても切れない関係にある。なぜなら、稲作を基盤に形成されてきた日本の社稷の祭祀者が天皇にほかならないから、だ。稲作をつづけ、米食をつづけるかぎり、農本的な日本民族の心性は変わりようがない。としたら、この心性の極に天皇が存在する状態も当面変わりようがないだろう。


松本健一氏が「思想としての右翼」(第三文明社)を発刊したのが昭和五十一年。日本の貿易黒字が問題になり始めた年であり、米ソ冷戦の中でベトナム戦争が終つた年であつた。日本は貿易黒字がまだ国内に浸透せず経済力でもアジアの一員としての自覚がある時代だつた。
反近代主義者の旗印である日本回帰論が、ほとんどすべて天皇へ帰一する論理をとったのも、もし日本に唯一固有なものがあるとしたら、それは天皇だけだったからである。

日本に唯一固有なものは先祖から続く文化である。天皇だけだったからであるといふ松本氏の主張には不同意である。しかし続けて
天皇が外国の皇帝とほとんど同じ存在だ、と内心でおもっていたのは、国家権力を握るリベラルだけであった。しかし、かれらはその内心を絶対に口外しなかった。かれらは(中略)日本を支配しつづけるために(中略)神話を、国民に与えつづけたわけである。

一月三十一日(土) 第一章(その七、神話は明治維新以降)
戦前にあっては、ひとにぎりの支配階級(政財界および言論界)をのぞき、天皇ハ万世一系ニシテ、皇統ハ連綿、という神話が、社会の表面を覆っていた。(中略)カリスマはウェーバーのいうとおり「唯一の大きな革命的勢力」(『権力と支配』)でありえた。(中略)この点に注目したのが、ほかでもない。北一輝と吉田松陰であった。

その理由は一輝と松陰が万世一系神話に束縛されなすつたためだといふ。一輝は
「憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇(明治天皇)を以て始め」(『国体論及び純正社会主義』)とする

松陰については「野村和作に与ふ」(安政六年)に、いう。
「恐れ乍ら、天長も幕府・吾藩もいらぬ。只六尺の微躯が入用。(以下略)」
これを、天皇制否定の論理へと短絡するひとは、まさかあるまい。(中略)しかし、ひとたび維新が成り、天皇制国家が成立してみると、万世一系神話は次第次第にわがくにびとたちを束縛していった。


二月一日(日) 第一章(その八、ナショナリズム)
ナショナリズムへの松本氏の考察はよくない。ナショナリズムかどうかは戦争がこれから起きるといふときに政府を支持するか、世界の農民労働者の連帯を採るか、その区分だけである。そして世界の共産主義者の多くが戦争で転向した事実を見るとき、一つには戦争といふ異常事態、二つにはソ連自身が世界の労働者側ではなく一つの大国だつたことを考慮する必要がある。
しかしこの節にも有益な情報がある。福沢諭吉の西南の役を起こした西郷への感想が
明治政府に対しては反逆したが、「天下」というナショナルなもの−国家であり民族であり国民であるが−に対して反逆したのではない。(中略)こういう評価は、福沢のナショナリストとしての一面を語っているというよりも、明治のナショナリズムが福沢のなかにも息づいていた、といったほうが正確であろう。

ここで西洋の影響を受けた国家や民族ではなく、国民の持つ心情に基づくことが明治時代までは誰もが持つてゐたのにその後は持たない人が出てきた。ここが左翼の起点であらう。

二月二日(月) 第一章(その九、続ナショナリズム)
明治三十八年に国家社会党をつくった山路愛山は、一時、平民社系の日本社会党(明治四十年)と結んだが、結局はこれと袂をわかった。平民社系の社会主義者や無政府主義者にいわせると、愛山は微温的だ、中途半端だ、ということになるが、明治国家の変革ということに関していえば、愛山のほうがより先鋭的に問題を捉えていたのかもしれない。

とする。例へば平民社系がブルジョアジー(紳士閥)と平民級(プロレタリアート)の対立で革命を考へるのに対して、愛山は
国家は歴史的発達を有する久しき生命にして必ずしも紳士閥の産出(うみだ)したるものにあらず。或は仮りに数百歩を譲りて・・・国家は紳士閥より出でたるものにても猶ほ紳士閥に対しては可成(かなり)独立自由の動作を為し得べきものなり。されば平民級は此国家と上下相呼応して紳士閥の専横を抑ゆべきものなり。則ち三元論(国家、紳士閥、平民級)を以て社会の時相を論ぜんとするものなり。

私は次の感想を持つ。国家とは黒船が現れて認識したものだからその前の感覚では領民の集まり即ち国民である。平民級はほとんどの国民が属するから、国家は即ち領民の集まりでありこれは国民ではあるが、これを平民級と区別するため国民意識と言ひ変へることができる。私はかう考へるが、尊皇攘夷の人たちは幕府に対抗するため国家を天皇と考へたし、平民社系の人たちは国家を紳士閥の支配機関と考へた。つまり右翼と左翼の国家観の分離である。だつたら私のように国民意識と考へれば左右に分離する必要はなくなる。

二月三日(火) 第一章(その十、国家社会主義と六十年安保)
国家社会主義といふとヒトラーを連想して印象が悪いが、元からあつた政党をヒトラーが乗つ取り政権や戦争を維持するため弾圧やユダヤ人虐殺を始めたもので、本来悪い意味はない。松本健一氏は良い意味にこの語を用いて

かれが社会主義的変革を是としながら、それをナショナルなものとどう関わらせてゆくかを考えていたことが、かれの国家社会主義を生んだとみて、まず間違いなかろう。

私は山路愛山がかれの国家社会主義を生んだのではなく、ナショナルなものとどう関はらせるかを考へたのでもなく、国民としてのごく自然な発想だと思ふ。しかし当時は戦争の時代だから好戦論、非戦論といふ分け方であれば非戦論であるべきだが、それとナショナルかどうかは別の次元であるべきだ。松本氏は「わがくにびとたち」が右翼でも左翼でも、ましてやリベラルでもなかつたが
ナショナルな想いが念頭から去っていかないかぎりにおいて、右翼に共感をよせた。その結果、天皇制に足をすくわれ、帝国主義戦争にひっぱられることになりはしたが、それはあくまでも結果である。左翼がもし革命を考えるのなら、その結果ではなく、大衆がなにをその心性(エトス)にひそませていたかを、知ろうとするべきである。

松本氏の説に賛成である。そして
右翼がそれをよくなしえていたとはいえない。六十年安保のとき、体制の走狗となって大衆に殴りかかってきたのは、ほかならぬ右翼であったから、だ。けれどこれは、もはや右翼たるの資格を失しているのであって、安保闘争は一面で、大衆のなかのナショナルなものの噴出であったのだから、右翼はこの戦列に加わってこそナショナリズムの戦士たりえたはずなのである。

としてこのとき影山正治にのみ右翼が存在したとする。彼は樺美智子の死に
彼女こそ、日本のためになくなった愛国者だと思う。こういう人が私達右翼陣営からでなかったことを残念に思う。

と語つたからであつた。


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