六百三十八、国民に言論と学問の自由を与へない山口氏(山口二郎氏批判、その二十五)
平成二十六甲午
十一月二十一日(金)
国民に言論と学問の自由を与へないエリート意識
十一月九日に山口氏は「けんかの作法」と題してコラムを書いた。ここで山口氏は
憲法で国会議員は院内の発言について院外で責任を問はれないと規定し、さらに言論や学問の自由を保障している
のはなぜか。
と問題提起するものの、その答たるや
国会議員、報道記者、学者の三つに、権力とけんかする武器を与えるためである。
と実に偏つたことを述べた。言論や学問の自由は国民のものだ。山口氏は言論は報道記者、学問は学者に与へられ
たものだと思つてゐるらしい。とんだエリート意識である。
十一月二十三日(日)
拝米ならず者
山口氏は第二次世界大戦の前と今は時代背景が異なることも知らずに次のように述べる。
ファシズムの成立過程では、ならず者が大きな役割を演じる。国民に対して情報と思考の素材を提供する報道機関と学者が、
ならず者の攻撃対象となる。
戦後の、特に米ソ冷戦が終結した後になつて突然、日本では拝米を振りまく奇妙な連中が現れた。ならず者と言つてもよい。
しかも報道機関と拝米猿真似ニセ学者に多い。山口氏は報道機関と学者がならず者の攻撃対象になるといふが、それは戦前
の話である。それでは今はならず者が自分を攻撃することになつてしまふ。そんなことはあり得ない。
十一月二十四日(月)
強権支配を企む者は誰か
山口氏の云ふところの報道機関と学者が
屈服すれば、世の中は強権支配を受け入れる道を
一挙に進む。今の日本では、最高権力者自身がならず者同然の暴言を繰り返している。さらにその周辺には、ペンを持った
ならず者がいる。
今の日本はマスコミと多くの学者が拝米に乗つ取られたため、選挙がまともに機能しない。そのため日本の最高権力者はアメリカ
政府である。そのことを理解した上で山口氏の主張を読むと実に面白い。報道機関と学者は平成三(1989)年に屈服してしまつた。
この年は冷戦が終結した年である。山口氏は、屈服すると強権支配を受け入れる道を一挙に進むといふが、平成三年に屈服して
しまつたのだ。だからその後は拝米一色の世の中になり、国民のための政治が行なはれてゐない。かつてはアメリカ軍に対して
強硬に主張し向うが出て行きたいならどうぞといふべきだと骨のある自民党の政治家もゐた。今はアメリカの顔色を伺ふ連中ばかり
である。
山口氏は、最高権力者の周辺にペンを持つたならず者がゐるといふ。ここは国民全体で爆笑すべき部分だ。一層の
ことペンと某大学教授の肩書きを持つたならず者がゐるといふと更に面白かつた。
十一月二十五日(火)
強権支配を企む者は誰か
権力を相手にする者は、すべからくけんかをする覚悟を持たなければならない。ならず者を相手にして言葉は無力である。理路
を尽くした批判をしても、そもそも理解する能力を持たない。
山口氏が本当に言葉は無力で権力者は理解する能力を持たないといふのなら、毎週書くことは無意味ではないのか。私は権力者
だらうと誰だらうと言葉は有力で理解する能力があると思ふからこれまで二十年間に亘つてホームページを書き続けてきた。しかも
安倍首相のことを「菅野田亜流の亜倍」と呼んできたが、安倍首相夫人の講演を聴き、これはまだ回復の余地があると判断したから
「安倍首相」に戻した。ニセ新聞東京パンフレットも最近良質な文章が稀にではあるが混ざるようになつたから
その文章を指摘して今後よい方向に向かふことを期待した。
山口氏が「ならず者を相手にして言葉は無力である」と思ふなら大学教授は辞職したほうがよい。ならず者ではない人間はもともと矯正
の必要が無いし、ならず者には講義しても無駄なのだから。(完)
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