六百四(丙、その一)、坪内隆彦著「岡倉天心の思想探訪」

平成二十六甲午
九月二十二日(火) 西洋列強の植民地の時代
岡倉天心の時代は西洋が世界中を植民地にした時代だつた。そのことを無視して松本清張などは岡倉天心を批判する。今回天心 の思想を紹介する書籍を見つけた。坪内隆彦氏の「岡倉天心の思想探訪」である。
たまたま数年前に石原莞爾を調べる機会があつた。それまでは作家Xと石原莞爾を分離し作家Xのみに賛成する立場を 採つてきたが、石原莞爾を詳しく調べてみると実に正論を述べてゐる。満州事変は板垣と石原が独断でやつたことになつてゐるが 立案段階で本庄司令官は飛行場の占拠を追加したし永田鉄山は大口径砲を関東軍に送つた。つまり陸軍全体がやつたのに戦後は 板垣と石原が独断でやつたことになつとしまつた。
岡倉天心を一方的に悪者にする言論は、石原莞爾を一方的に悪者にする言論と根源が同じである。それはアジアの連帯をアメリカが 嫌つた。さう判断できる史実が書かれたのがこの書籍である。

九月二十三日(水) 第一章平和思想としてのアジア主義
千九百二(明治三十五)年天心はインドのコルカタ(カルカッタ)に到着しヴィヴェカーナンダと対面した。
やがて天心がまとめる著作のタイトルとなる「東洋の理想」という表現は、ヴィヴェカーナンダが好んで用いた表現だった。一八九六年 二月二十四日のニューヨーク講演でも、彼はこう語っている。
「東洋の理想は、西洋の理想とおなじように人類の進歩にとって必要です」
「東洋の理想」としてヴィヴェカーナンダが語るのは、東洋の宗教の理想であり、平和の理想にほかならない。彼は、こう強調していた。
「西洋の人々は組織、社会制度、軍隊、政府等々に立派です。しかし宗教を説くということになると、常にそれが仕事であったアジア人の そばにも寄れません」


このときヴィヴェカーナンダは健康が悪化し死期が近付いてゐた。ヴィヴェカーナンダはタゴールに会ふよう勧めた。そして天心は訪問した。
インドにおいては、イギリス支配から脱するには相手の武器を手にする必要があるとの考えから、極端な 西欧文明の導入が進んでいた。こうした欧化に反対したのがタゴールであった。彼は詩において「古代インドに帰れ!」と訴えたのである。 (中略)それは、天心と同質の国粋主義的主張であった。

戦後は、国粋主義といふと外国人を差別した思想のように思はれてゐる。しかし本来は温かいものである。それは坪内氏の次の文章に 表れてゐる。
天心が『東洋の理想』で東洋の宗教的理想を称揚したとき、仏陀の慈悲がことのほか重視されたのは当然であった。

しかし明治政府は欧米におもねた。西郷隆盛は今でも国民的人気が高いが、一方で中学高校の教科書は中身は紹介せず言葉だけ征韓論 を載せ西郷の評判を悪くしようとする。
「征韓論」で知られる西郷は、朝鮮への派兵を避けて使節を派遣すべきだと論じていたのである。(中略)西郷の主張を批判した大久保や 岩倉は、欧米列強の干渉を招くようなことはすべきではないという理屈だった。絶えず欧米のご機嫌こそが優先された。(中略)欧米列強の 顔色を伺いつつ、帝国主義ゲームに参入するという、ヨーロッパ流近代化に邁進する論理である。

西郷は
西洋の自己愛に発する個人主義・ナショナリズムが帝国主義化する道すじをも鋭く予告していたのである(松本健一)。

この後、この本は西南の役では熊本鎮台司令官だつた谷干城(たてき)農商務大臣が欧米視察後に帰国し伊藤博文や井上馨の列強との条約 改正案に反対し大臣を辞任した件を取り上げる。天心は谷に近い高橋健三とともに美術専門誌「国華」を創刊する。
現在アメリカにおもねることに何も感じない「民族主義者」とは対照的に、当時の国粋主義者たちは、欧米におもねることを潔しとしなかったのである。 伊藤らは国家主義者であったとしても、国粋主義者ではなかった。だが、やがて国粋主義者たちは、国家主義に引きずられていく。

九月二十四日(水) 第二章アジア連帯の理想と現実、その一
インド滞在中の天心が行動をともにしたのが、タゴールの甥、スレンドラナート・タゴール(以下スレン)、タゴールの姪のショローラ・ゴーシャル らであった。(中略)「あなたは祖国のために何をなさろうとお考えですか?」
天心はスレンにいきなり覚悟を問うた。
毎日、夕方になるとスレンたちは天心の食卓に集まった。


そして天心は覚醒の言葉を発し一冊のノートに綴つた。これが『東洋の覚醒』である。天心とは別の方法でアジア連帯を考へる運動もあつた。 例へば興亜会である。
中国情報に通じた曽根俊虎らは、欧米に抵抗するために日中が連帯することを主張し、興亜会を旗揚げしたのである(中略)。だが、興亜会の 発想は、「アジア各国が近代化を推進して欧米のごとく力を得よう」というものだった。(中略)興亜会発足にあたって大久保利通が積極的に 関わったのも当然であった。単純にいえば、西郷、そして天心とは逆の発想だったのではないか。
とはいうものの、アジアは「誇り得るものを守るため」に、近代化しなければならなかった。


九月二十五日(木) 第二章アジア連帯の理想と現実、その二
もともと日本の国粋主義も仏教的価値観をベースに、精神的、道徳的な伝統の維持を標榜していた。それは、欧米のパワー・ポリティクスを批判 する側にあった。
しかし、日本の伝統を守ろうとする立場は、国家の存続をまず考えねばならなかった。


私は前半には反対である。勿論仏教的価値観をベースにすれば日華事変も先の戦争も起きなかつたから、本当は賛成である。しかしこの当時 日本の精神の中心は西洋思想、国学、儒教、仏教の混合したものであり、それだけなら問題はないが権力側、マスコミ、既得権者にとつて これらのなかの都合のよい部分だけをつなぎ合せた化け物のような思想になる。私は純粋な気持ちで信じるなら仏教ではなくても賛成である。 例へば著者の坪内氏は日経新聞記者からフリージャーナリストになり日本マレイシア協会理事も兼任する。決して仏教に偏つた人ではないが、 仏教にこだはるとインド、パキスタン、インドネシア、フィリピンなど非仏教国が漏れてしまふ。日本でも神道、儒教が外れてしまふ。昨年 三島由紀夫、森田必勝両烈士追悼四十三年祭に参列したとき私は勿論神道式に参列した。決して神道 関係者が多いから味方にしようなどと考へたのではない。三島由紀夫、森田必勝両烈士を追悼するには神道で行ふべきだ。
一八九〇年一月、小沢豁郎、福本日南(にちなん)、白井新太郎らは、欧米列強のアジア進出への対応に向け議論を開始、一八九一年七月、 東邦協会が設立された。(以下略)
天心は、東邦協会とも近いところにいた。会員は会報に掲載されたが、最初に掲載された百二名の中に天心の名がある。そればかりか、協会の 機関誌(中略)に、天心は「支那の美術」(第三十五号)を寄せている。


十月四日(土) 第二章アジア連帯の理想と現実、その三
日清戦争が勃発したとき、外相の陸奥宗光は「西欧的新文明と東亜的旧文明との衝突」であるとして開戦を正当化した。陸奥の論理を応援 したのが、福沢諭吉らである。福沢は開戦直後の八月二十九日の『時事新報』において、「日清の戦争は文野(文明と野蛮)の戦争」、「文明 開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦」と論じた。

このあとこの本は福沢の脱亜論を示したあとで
これに対して、政教社グループの陸羯南らは「ヨーロッパを友とし、日本に敵対し、朝鮮を隷属する」清の国是を一変させることを、日清戦争の 目的と考えるようになっていた。

陸羯南(くがかつなん)とは職を転々としたあと谷干城、小村壽太郎らの援助を受けて日本新聞を創刊し社長。正岡子規を援助した。
日清戦争勝利によって「文明化の論理の勝利」という議論が高まり(中略)政教社の国粋主義も修正を余儀なくされた。欧化主義と国粋主義を 統合した第三の路線が主張されるようになるのだ。(中略)『太陽』を舞台に、高山樗牛(ちょぎゅう)は「日本主義」を主張し、国粋主義と欧化主義 の統合を試みたが、それは「万世一系の天皇の血統」を強調し、「建国当初の抱負」を自覚すべきという神国的国体論を表に出すことになった。 (中略)ついに、一八九八年三月天心は失脚に追いこまれた。天心自身の私的な問題がきっかけとなっているが、天心の国粋主義教育が 曲がり角に来ていたことも事実である。

十月五日(日) 第三章日本のアジア主義の終着点
一九四一年七月、大日本興亜同盟が設立され、アジア主義団体はここにまとめられた。大日本興亜同盟への参加を拒否した石原莞爾の 東亜同盟、中野正剛の東方会は弾圧されたのである。
のちに竹内好は「アジア主義的な思想を弾圧することによって共栄圏思想は 成立したのであるから、それは見方によってはアジア主義の無思想化の極限状態ともいえる」と書いている。


天心の孫、岡倉古志郎は若い頃からマルクス主義に関係した。就職の時に東京電気(現芝浦)の採用試験に合格するが治安維持法違反で 検挙されたことが発覚して取り消された。その後、知人の紹介で就職するが結核で退職、その後は企画院の嘱託となつた。企画院はマルクス に関係した人も少なくなかつた。
別々の夢を見ていたにしろ、資本主義体制・自由放任経済への反発という左右に共通するメンタリティが流れていた。欧米型の資本主義に 対して、軍の一部をも含む保守勢力とマルクス主義者がそろって抵抗する、という図式は成り立っていた。それは、「近代派」対「近代超克派」、 「対米協調派」対「アジア主義者」の大綱関係とも微妙に重なっていたのだ。
本来、社会主義的な思想は必ずしも日本民族の伝統、 アジアの伝統に対立するものではなかった。(中略)


こののち一八九七年の社会問題研究会、一九一八年の老壮会、二六年の建国会、三〇年の愛国勤労党に左右の両方の人たちが集まつた ことを紹介してゐる。この中には昭和六十年頃まで右翼の中心として活躍した建国会の赤尾敏も含まれる。
民族主義者と社会主義者が敵対する構図というのは、歪められた結果であり、元来の関係ではなかったことは、民族派の小島玄之(げんし)の 次の言葉にも十分示されているように思う。
「資本主義体制は、人間より金、精神より物質に重きをおき、弱肉強食、適者生存の本能を 基本とする特徴をもった制度である。それと、金よりも人間に、物質よりも精神に重きをおき、お互いに扶れ合ってゆこうとする本能を基本とする 特徴をもった制度とを較べ、どちらが大和の精神、八紘一宇の理想を実現しようという日本の民族的道義にふさわしい制度であるかは、多く説明 を要しないことである」(堀幸雄『戦後の右翼勢力』)



(國の獨立と社會主義と民主主義、その百八)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百九)次へ

メニューへ戻る (乙)へ (丁)へ