六百四(丙、その二)、坪内隆彦著「岡倉天心の思想探訪」

平成二十六甲午
十月五日(日) 第四章戦後のアジア主義、その一
第二次世界大戦の後、国連総会の権限獲得のアジア各国の闘ひ、信託統治地域住民の将来、ニューデリーでのアジア関係会議を経て、つひに インドが独立した。そしてA・Aグループが結成された。しかし日本はこれらの動きから隔離された。それはアメリカ政府文書に載つてゐる。
一九四九年に採択された国家安全保障会議(NSC)文書48−1は、日本のアジア主義者に警戒すべきことを明確にうたっている。(中略) アメリカは、左右アジア主義者の連携を最も恐れた。あらゆる工作によって保守派、右翼を反共の方向に誘導して無力化しようとしたと見られる。 一九五一年にトルーマン大統領が心理戦略本部(PBS)を設置し、日本に対して巧みな世論工作を行なった。一九五三年六月に出された NSC-125-6には、中立主義者と反共主義者を無力化する方針が示されていた。(中略)アメリカの封じ込め政策は、二重の封じ込めであった。 (中略)日本は共産陣営と接近することを禁じられるとともに、主体的にアジアと接近することを禁じられた。


このことは今でも続いてゐる。鳩山政権がなぜ突然倒れて反中反韓拝米の菅、野田とその亜流の亜倍になつたのかを考へればよく判る。 古くはなぜ田中角栄政権が倒れたかを考へるとよく判る。
戦時に天心の思想を賞賛した日本浪漫派は、アジア主義封印の時代にどう対応したのだろうか。
純粋なる文学の名において、かれら 厚顔無恥な、文学の冒涜者たる戦争責任者を、最後の一人にいたるまで、追及し、弾劾し、文学上の生命を葬らんとする」
一九四六年 一月一日、文学者の戦争責任を追及するために発刊されることになった『文学時標』は、こう宣言した。紙面の一角に「文学検察」という欄が 設けられ、三十人以上の文学者がその責任を厳しく追及された。そこには、保田與重郎の名も、亀井勝一郎の名も、そして林房雄の名もあった。
徹底攻撃を受けた保田は、言論界から追放された。しかし、保田は雑誌『祖国』に拠り、無署名で執筆をつづける。(中略)保田が一九五〇年に 『祖国』に連載したのが、「絶對平和論」であった。四回にわたって連載されたこの論文は、五〇年末に補足を加えられ、一巻として出版された。 その刊行主旨にはこうある。
「『絶對平和論』は、近代を否定し、アジアの恢弘(かいこう)の必然を唱える學説である。(以下略)」


これは極めて正論である。考へてもみよう。西洋野蛮人どもが産業改革だの資本主義だのと永続できない悪魔の思想を考へ出したため 世界中で貧困や殺戮や戦争が起き、それだけなら人類は例外として全生物の永続には八割くらいは影響しないからまだ許容できるが地球温暖化で 全生物が滅亡の危機にある。今こそ西洋野蛮人どもの近代文明と称する悪魔の思想を超克しないと地球は滅びる。
日本政府は一九四七年のアジア関係会議に出席することができず、(中略)それから八年、独立を回復したものの、アメリカ追従の外交を余儀 なくされていた日本にとって、バンドンは重荷だった。(中略)一九五四年十二月十日には、吉田茂にかわって、鳩山一郎が首相に就職していた。 (中略)鳩山や後述する石橋湛山だけではなく、戦後「保守陣営」の中にも、確かに「アジアは一つ」の精神は生きていた。
その精神は、伊藤博文→吉田茂、政党でいえば、政友会→自由党を中心とする親欧米・近代化路線に抵抗する陣営の中に流れつづけていた のである。


ここで五十五歳以上の人なら名を聴いたことのある松村謙三の説明が入る。アジア主義の立場で戦前の立憲民政党、戦後の日本進歩党、 改進党の流れで自民党に存在した。
アメリカからのより自立した日本を主張する「自由人のクラブ」という組織があったが、松村は東亜連盟の流れをくむ辻政信や千葉三郎、中曽根 康弘らとともに参加していた。
改進党発足の三ヶ月前の一九五一年十月、講和条約・安保条約批准国会が開かれたが、このときには、 園田直、稲葉修が反対、中曽根、北村徳太郎が棄権している。(中略)改進党や鳩山自由党が合流して誕生した日本民主党には、中曽根、園田、 稲葉、千葉、北村など反吉田・対米自立の思想が色濃くみられた。
この民主党路線に対してアメリカは警戒感を高め、露骨な干渉に出る。(中略)アメリカはバンドン会議開催がきまると、アジア・アフリカの友好国に ボイコットを呼びかけた。むろん、アメリカのバンドンつぶしは中国(共産陣営)の勢力拡大を恐れる外交政策に根ざしていた。しかし、アメリカが もっと恐れたのは、「アジアは一つ」の理想ではなかったか。


坪内氏の意見にほとんど賛成だが、最後の部分だけが少し異なる。アメリカが最も恐れたのは共産陣営だがアジアの思想は資本主義とは異なり 共産主義に付かないよう当時は圧力を掛けた。その後、ソ連解体から十年ほどしてからアメリカは矛先をアジアそのものに向け始めた。これが ここ十五年のアメリカの動きである。坪内氏が本を著したのは一九九八年で丁度境目のときだからそこまで見なかつたのは当然である。

十月六日(月) 第四章戦後のアジア主義、その二
いずれにせよ、バンドンの精神は発展しつつあった。一九五七年十二月二十六日には、カイロで第一回アジア・アフリカ人民連帯会議が開催 され、アジア・アフリカ四十五ヵ国、約五百人が参加した。
日本は「左」「右」の呉越同舟で代表団を送ったのである。北村徳太郎を団長とする 日本代表団は、河本敏夫、園田直ら自民党から共産党までの超党派で、五十八人もの大代表団であった。
社会主義と民族主義、そして アジア主義とは、必ずしも対立するものではなかった。


この後、浅沼稲次郎を「米帝国主義は日中両国人民の敵」とはげしい反米的立場をとりと紹介するが、 浅沼稲次郎が訪中しその場の雰囲気に圧倒されて発言したものではげしい反米的立場とは言へない。それより社会党自体が反米を主張し それがごく普通であるところが重要である。カイロ会議に於いて
採択された「帝国主義にかんする決議」では、帝国主義が民族独立と世界平和の敵であるとして、形態、外見を問わず一切の帝国主義を非難し、 侵略的軍事同盟、軍事基地、外国軍隊の駐留に反対した。

これもごく当り前の話である。今の日本はアメリカ軍が駐留して69年を経過したから感覚が変になつた。外国軍隊の駐留に反対するのは当り前 の話である。とはいへ69年が経つと急に撤兵するのは難しい。だから私は軍事面に留まるのは構はないが内政工作や文化破壊は許さないと 日本は主張すべきだと何回も言つてきた。
しかし、東西冷戦という国際情勢の中で、西側の保守派はアジア・アフリカ人民連帯会議が東寄りに傾斜しつつあることを警戒した。ソ連がアジア・ アフリカ人民連帯会議を利用しようとしたことは、残念なことであった。

これもほとんど同感である。「西側の保守派」は正しくは「西側の資本主義派」である。本当の保守派は資本主義に反対しなくてはいけない。なぜなら 資本主義は地球を破壊し、人類が長い年月を掛けて築いた永続の知恵を破壊してきたからである。
こののちアジア主義は分裂に向かふことになる。
「右」の民族主義者たちはアメリカの政策にひきずられてアジア・アフリカ連帯会議から遠ざかったのではなく、そこにソ連・共産主義の陰を 見て遠ざかったと解することもできる。
一九五九年二月、おなじカイロを舞台にアジア・アフリカ青年会議が開催され、「右」と「左」の対立は はっきりした。ぎりぎりの調整を経て、一つの代表団として会議に臨んだにもかかわらず、その根深い対立が出てしまったのだ。
会議に 参加した祐成善次の言い分はこうだ。
「いわゆる総評とかアジア連帯委員会というような人たちからの大変な文書、電報で、われわれが 分裂したことを向こうが知っていたわけですが、二十何団体ある日本準備会はすべて反動青年団体であるとか、それからアラブの民族主義には 無理解である、あるいはあらゆる言葉を使って向こうの事務局にわれわれの存在を無視するような工作をしていた」
(『民族と政治』)
「左」の アジア・アフリカ連帯論者には、確かにソ連に対する幻想があった。しかし、彼らはネルーやスカルノやナセルといったアジア人の訴えにこそ、反応 していたのだ。


これは正しい。米軍の駐留とアジアとの連帯が総評や社会党のエネルギーだつた。そこにアメリカの工作が入つた。
アメリカは、岸政権を徹底的に支援して、親米反共路線を確立させることに全力を注いでいた。民族主義を親米反共に誘導し、離米・アジア主義志向を 徹底して抑えにかかるという意図をもっていたのである。
一九五八年初頭、アイゼンハワー大統領はCIAに対し、岸首相、佐藤栄作自民党総務 会長らに、年間総額一千万ドルの秘密選挙資金を提供することを認めていた(以下略)。
CIAの工作資金は、西尾末広など社会党穏健派幹部にも 提供されたとされる。アメリカが狙ったのは、社会党の分断、社会党の親米化である。実際、西尾派は一九五九年十月二十五日に離党し、翌六〇年 一月二十四日、民主社会党を結成した。


社会党がともすればソ連に向かはうとするのを右派は民族主義の立場で抑へた。左派も民族独立と社会主義を同時に進めるか民族独立を先に行なふ かで論争が起きるほどだつた。それなのに右派が親米になるのはかういふ工作があつたためだ。
安保で揺れた一九六〇年、戦前から一貫して民族主義運動をつづけてきた毛呂清輝(もろきよてる)は、ついに筆をとった。(中略)「何故今日、民族運動 が延びないのか、それは端的にいうと、いわゆる右翼、左翼に対する右翼でしかない、そこに問題があると思うのです」、「客観的には、今日、 民族運動というものは新しい形で発生する条件が相当成熟していると思います。
その条件を巧に逆用しているのが左翼陣営だと思うんです。占領中、真先きに”民族独立”を唱えたのは、共産党だったし、最近だつて”愛国と正義”という 立場を彼等は使っているわけです。
そして逆に岸さんや、保守党を”売国奴”と呼ぶことによって純真な青年や学生を引つけているわけです。
いつか、『新日本』の阿部源基氏(元警視総監)が昔は”革新陣営”といえば、愛国陣営のことを指した”と云つていましたが今の愛国団体は、共産党のいう ”売国政党”の院外団みたいな立場におかれて、一つの自主的立場を失っているように思うのです」
(中略)
この毛呂の主張が載ったのは『新勢力』である。この民族派雑誌は、毛呂自身が一九五六年に創刊したもので、浅野晃がときどき寄稿し、保田與重郎も 関わりをもっていた。


十月八日(水) 第四章戦後のアジア主義、その三
左右がイデオロギーを絶対的尺度として激突するばかりで、本来の民族主義、アジア主義が歪められていく。
一九六一年二月、毛呂はふたたび筆をとらねばならなかった。
「われわれは、明治以来の歴史をアジアの一環として再検討すると共に、右翼ナショナリズムが、ドイツ的観念論と、ヨーロッパ流のナショナリズムに 拠り、左翼社会主義が、同じくヨーロッパ式社会主義の翻訳であることを反省しナショナリズムが、アジアを敵として戦い、再びアジアから有利すること を警戒し、社会主義もまた、日本を遊離し、非日的社会主義に堕することを反省すべきだと思う。
日本人は日本人と争はず、アジア人はアジア人を討たずという原則の確立こそが世界平和、第三次戦防止の防波堤になるのではなかろうか」
( 『新勢力』一九六一年三号)


これも同感である。今はこのような主張は私のホームページくらいでほとんどなくなつたが、昭和三十六年はこれが国民の大半の気持ちであらう。 この後の所得倍増計画とアメリカの工作で国民の意識は徐々に
こうして、毛呂清輝らの主張も虚しく、アジア・アフリカ連帯運動は革新陣営に引き取られていった。それゆえに、 アジア・アフリカ連帯はときにイデオロギーによって歪められた。否、毛呂のいう「非日的社会主義」によって歪められた。
ともかくも運動において華々しい活躍を見せたのは、第一回アジア・アフリカ人民連帯会議の日本代表をつとめた北村徳太郎の後継者でも、「右」 の民族派でもなく、平野義太郎や坂本徳松、そして古志郎らであった。
彼らは、マルクス主義を標榜したが、なお愛国者であり、アジアの復興 を願うアジア主義者であったかもしれない。


一九六三年第三回アジア・アフリカ連帯会議が開かれた。日本代表団長の坂本徳松はかう演説した。
「わたしたちのたたかいは、共同の敵、アメリカ帝国主義に反対するアジア・アフリカ人民の共同のたたかいの一部であります。(中略)いまこそわたし たちは、アジア・アフリカ人民連帯の旗をたかくかかげて、愛国正義のたたかいを促進すべきときであります!」
坂本は「愛国正義のたたかい」といったのだ。


今はベトナム戦争が終結したからアメリカ帝国主義と明言はしなくてよいかも知れない。しかし地球を破壊する近代西洋野蛮文明の中心としての アメリカに対して反対することは重要である。欧州は単独なら伝統文明に戻るはずだ。アメリカがあるから地球破壊に突進する。
一九六一年五月、ついに古志郎はみずからアジア・アフリカ研究所を旗揚げする。(中略)多くのアジア・アフリカ研究者が協力した。蝋山芳郎、 坂本徳松、甲斐静馬、寺本光郎、陸井三郎、そして戦時中の綜合印度研究室以来のつきあいの鈴木正四も参加した。

今、これらの名前を見ても誰も判らない。古志郎さへこの本を読むまで知らなかつた。いかに戦後の言論界が偏向してきたかが判る。

十月九日(木) 第五章
石川準十郎は『新勢力』一九六五年四月号で(中略)この論文につけられた「歴史の方向侵すべからず−米・ソこそは東亜民族共同の敵」という タイトルが示す通り、そこにはアジアの民族主義を支持するという立場がはっきり示されていた。(中略)民族派は、非同盟運動が共産主義勢力の 影響下にあるとして距離をとってきたが、彼らの言葉もそしてその背後にある思想的立場も、非同盟運動のものと共通していたのである。
その綱領の冒頭で「我々は、いかなる大国の横暴にも反対し、特定の国家による植民地主義的・覇権主義的世界秩序構築を拒否する」とうたう 新右翼団体・一水会のメンバーは、九六年五月にイラクを訪問、非同盟諸国会議に出席している。
すでに一九六〇年代半ばには、全学連 との対決を運動の中心としてきた右翼学生の運動の方針にも、変化がみられるようになっていた。一九六六年十一月、日本学生同盟(日学同)が 結成されている。彼等は、「民族」を原点とし「ヤルタ・ポツダム体制(Y・P体制)打破」、「国家の自主独立」などをスローガンとして活動を開始した のである。アメリカ、ソ連の「二大国による戦後世界の分割支配」を攻撃した。「Y・P体制体制打倒」の理念では、現在の憲法、日米安保条約はもとより、 政、財、官界、そして既成右翼も歴代保守政権と癒着し、Y・P体制を肯定するものとして、批判の対象になる。


これが正当である。かつては左翼も右翼も国の独立を第一に考へた。
非同盟諸国首脳会議は一九七〇年に六年ぶりに開かれ、三年ごとに 開かれたが
一九七九年のハバナ首脳会議では、カンボジア代表権問題をなどをめぐり、親ソ反米色を鮮明にした キューバなどとユーゴ、ASEANがはげしく対立した。キューバの強引な会議運営に反対したビルマが「非同盟は死んだ」と脱退するなど混乱した。 チトーの尽力でなんとか分裂は回避したものの、非同盟運動内部の結束は乱れつつあった。

十月十日(金) 「おわりに」
その後、ソ連が崩壊した。アメリカは新たな敵としてアジア主義と非同盟運動に標的を向けた。それ以降国内の自民党と旧社会党、ニセ労組連合、 国売り(自称読売)、白人崇拝KKK(自称サンケー)、社会破壊反日(自称朝日)の各新聞の体たらくはアメリカの工作に屈した醜い姿である。 この本は九十八年の出版のため、そこまでは触れてはゐない。「おわりに」を見ると
本書は、アジア主義の中でも岡倉家と関わりのふかい部分のみを扱ったため、石原莞爾、橘璞(たちばなしらき)、辻政信といった人物のこと、戦後 日中連帯運動にもつながる東亜同文書院などについては言及できなかった。また、左右両翼の思想背景ともなりうる農本主義についても十分 ふれられなかった。

私のホームページがこれまで石原莞爾を取り上げたのも、日中親善を取り上げたのも、左右共闘を取り上げたのも根底にアジア主義があるからで、 私と坪内氏の主張はほぼ同一である。(完)


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