六百四(乙)、横山大観

平成二十六甲午
九月十五日(月) 朦朧体、その一
二年前に横山大観記念館を訪問したことがあり、画に少し違和感を感じた。今思ふとなるほど これが朦朧体なのかと今回岡倉天心を特集して知つた。知つた上で再度横山大観の絵を観たいものだ。そこで「巨匠の日本画[2] 横山大観」(学習研究社)を図書館から借りた。観るとなるほど巨匠である。本には朦朧体の説明も載つてゐる。私は事情を知つて みてなるほどと感心したが、当時の世間は知つて無視した。その理由を調べよう。それが今回の目的である。この書籍には
おそらく、当時の青年画家の間で人気のあった黒田清輝の外光派が、「空気を描け」をお題目にして いた、その日本画への応用であった。そのために横山大観・菱田春草らは空刷毛(からばけ)によるぼかしを全面的に多用した。 空気とか光の表現に情趣的な味わいを加え、結果として線抜きの淡い色彩となり、水彩画のような様相を呈した。彼らはそこへ 宗達・光琳らの琳派の装飾的手法を加えてゆき、色彩を本位とした、彼らのいう「色的没骨法(しきてきもっこくほう)」へと展開する。
とある。

九月十六日(火) 朦朧体、その二
次に別冊太陽「気魄の人 横山大観」を見ると
「私共は空気を描くとか何とかいふ試みをしまして、 技術の問題ですが、濡れた絹の中に描きますと、ボーッとぼけます。それをぼけないうちに喰止めたりした。(以下略)」 と大観は言っている。(中略)確かに線を用いず、色彩の濃淡だけで描こうとするこの表現方法には、 おのずと限界があった。まず、湿潤な大気を表現するには適しており、風景画としては成功したが、人物画や花鳥画など事物の 表現には向かなかった。(中略)そして、一般の人たちが好むような歴史画や風俗画の表現には向かなかったため、ますます市場 での扱いが厳しくなるという悪循環であった。

ところがアメリカとイギリスの展覧会では朦朧体が好評で作品も飛ぶように売れて
約一年半におよぶ外遊から帰った明治三十八(一九〇五)年十二月に春草との連名で発表した<絵画について>という論文では、 自分たちの朦朧体の研究が間違っていなかったことを改めて主張するにいたっている。そして彼らにとって収穫だったのは(中略) 日本や東洋にも古くから輪郭線を用いない色彩画が存在したのであって、今や世界的に認められている尾形光琳らを範に取りながら 色彩研究をさらに進めていく

といふものであつた。
いわゆる朦朧体からの脱皮は、この外遊をきっかけとして大きな進展を見た。具体的には琳派などの装飾的表現と、印象派や後期 印象派の色彩表現との融合であったといってよいだろう。(中略)大観、春草の画風も急速な展開を見せることとなった。

九月十八日(木) 朦朧体を超える
美術年鑑社の「横山大観の世界」によると、「初夏竹林」の解説に
古来の日本画の描線は単に物理的な輪郭や量感、質感を表現する以上に精神的な意味を付与されていて、伝統的な描線から日本画を 解放しようとするのが朦朧体であり、洋画風の遠近や空間表現、そしてなにより光と空気の表現を日本画に取り入れようとしたのである。 (中略)「初夏竹林」ではやはり線を排除して色彩の濃淡や暈(ぼか)しによって描き(以下略)

とある。明治三十三年の「菜の花」、三十六年の「初夏竹林」は霞んだ風景、三十五年の「迷児」は孔子、キリスト、釈迦、老子に囲まれた 迷児で空想の世界といふことで、朦朧に合つた題材だが当時は理解されなかつた。観る者は描線に期待するから期待はずれだと感じた。 私が横山大観記念館で最初感じたのもこの感覚だつた。明治三十八年の「牡丹」は
没骨描法で描いているが(中略)冴えた色彩の配置に、盟友である春草と共に琳派を研究した成果がみずみずしい画面に見てとれる。(中略) 初期の琳派の大らかな美意識の良いところを摂取している点に注目したい。

これ以降、大観は名作を次々に発表するようになる。大観と苦楽を共にして朦朧体を超えた菱田春草は明治四十四年、三十六歳の若さで 病死した。

九月二十一日(日) 雅邦先生の教へ
横山大観が晩年に取材に応じて昔の話をした。その一年間に亘る十回の速記をまとめたものが大観画談で、生きた国宝の自伝として当時 好評を博した。大観画談の「雅邦先生の教へ」の節に
橋本先生の言はれた古畫の模冩と云ふのは、いま考へても、とてもよろしうございますが、古畫を見て、ただそれを冩すとその精神を捉へる ことができない、だから古畫を毎日掛けてはしまひ、掛けてはしまひ、一週間くらゐ何もせずにそれを見てゐて、古畫がすつかり腦裏に入つて しまつてから、これを初めて冩すといふのです。

雅邦先生とは橋本雅邦で父は川越藩の御用絵師であり木挽町狩野家の高弟でもあつた。雅邦も養信に入門し、同じ日に狩野芳崖も入門して ゐる。横山大観は東京美術学校を卒業後、古画模写をした。
古畫模冩の時は、いつでも菱田春草君と一緒に歩きました。春草君とも話し合ひまして、在學當時云はれた通りのやり方で、「初めから冩す とだめだぞ、魂の拔けた繪が出來てしまふから、三、四日遊ぶつもりで繪とにらめつこしよう」

ここが日本画の真髄であらう。そのまま写しては洋画である。否、洋画だつて写実主義以外は精神がある。しかし西洋人以外には精神が 判らないし、判つたとしても別の目的に解釈してしまふ。ここに日本画の重要性がある。

九月二十一日(日)その二 美術学校紛擾事件
天心の校長非職事件について大観は次のように話す。
美術學校に福地復一といふ人がゐました。もと博物館にも關係したことがあり、岡倉先生から信任されて、明治二十九年、美術學校に 新しく圖案科が新設された時、選ばれてその主任教授となりました。その頃、橋本雅邦先生は教頭でした。(中略)菱田の卒業制作「寡婦 と孤兒」が問題になりました。福地は、「こんな作は繪ではない」と言ひ出し、橋本先生は、「こんなうまい繪はない」と反對されました。それが 大變な激論になつて、(中略)岡倉先生は、その頃、半年以上中國に行つてゐました。歸つて來たらこの騒ぎです。(中略)教員會議を開いて、 その福地に辭職させろと云ふことになり、橋本先生、高村光雲、その他五、六人で福地のところへ談判に行きました。さうすると福地は、 これは岡倉が指圖したんだらうと云ふので、岡倉排斥論をたくらんだのです。
岡倉先生は福地を非常に信用されてゐましたから、ふだん何でも喋舌つてゐました。それで福地は岡倉先生のことを何でも知つてゐました。 これには大村西崖、(中略)その他二人ばかりが關係して、岡倉先生の平常の行状のすべてを書きたてて(以下略)


ここで思ひ出すのは松本清張の低質な著書である。清張は天心が校長代理を決めずに半年間中国に行つたために福地が越権を重ね 帰国した天心がそれを咎めたため福地が離反したとする。しかし雅邦が教頭だから福地の行動はやはり専横である。清張は剣持が日本 美術院時代に専横を極め、それは天心の秘密を知つてゐたからだとするが、福地が既に知つてゐて世間に公表したから改めて剱持に 気兼ねする必要もない。大観画談には「幹事の剱持氏」で登場するが、専横を極めたような話は一切出てこない。大観は天心派だから悪く 書かないのだらうと推測することも可能だが、剱持が専横を極めたなら大観を始め周囲は不愉快だから悪く云ふはずだ。それがまつたく ないのは、松本清張の本が作り話だからだ。

九月二十一日(日)その三 五浦時代
五浦へは横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の四名が参加する。純日本風の建物で海に面した三十五畳の広間に四名が並んで 絵を制作する写真が有名である。しかし横山、菱田には注文が来なかつた。
五浦に書畫屋が來なかつたわけではありません。それは澤山東京から參りました。しかし、それは下村と木村のところに頼みに行く ので、私と菱田の前は素通りです、これは辛かつた。

天心が半年間の渡米中に留守を託された人がそのことを傳へると天心は
二人とも何も世にすねてゐるわけぢやない、自分の藝術のために、ああして世と合はなくなつてゐるのだから、いま僕らが朦朧派の繪を やめて、賣れるやうな繪を描いたらどうかとは言へない。もう少し見てゐようぢやないか

と答えた。これが後に大観と春草の大成に繋がつた。五浦のエピソードとして天心の友人で茨城県知事の人がわざわざ五浦まで来られて、 大津の町から山を掘りぬいてトンネルを作り平まで道を作ってあげるといふ話だつたが天心は
とんでもない、さういふことになつたら、俗人がむやみにやつて来て困るから

とすぐに断つてしまつたさうだ。また勿来関(なこそのせき)の一つ手前の関本(現、大津港)駅に
鐵道省の方で、岡倉先生の名前を書いた廣告版を出してゐたものです。

とあるから決して新聞などに書かれたように都落ちではなく、世間には知られた存在だつたのだらう。

九月二十一日(日)その四 天心と文人画
大観などの展覧会を米国で開いたとき、天心が賛助出展した絵を半月ほど前に本で観たことがある。その一方で別の本には天心作と言はれて ゐる絵は天心の構想を観山と春草が描いたと書かれてゐて、それが前に観た絵なのかどうか記憶にない。日本画家に教へた天心である。私は 自身も絵が描けたと思ふ。大観はそれについて
先生は音樂のことは勿論、書道も、茶道も、活花にもみんな心得がありました。繪は文人畫を習つてゐました。私などよくお酒の席に呼ばれ、 「おい、横山筆を持つて來い」と仰有られましたので、それを用意して差上げますと、御自身で繪を描かれてゐました。

日本画家の前で描くのだからよほど自信があるのだらう。しかし大観が天心の絵について論評しないところをみるとそれほど上手といふ訳では ないかも知れない。文人画を習つたのは数枚だけだと別のところにあるし、賛助出展は文人画ではなく日本画だと思ふ。
文人画は中国の南画である。明治初めに滅んだ理由は、日本の教養人が中国の画風を真似して描いたのが南画で、明治維新以降は中国の 権威が乳に落ちた。だから描かれなくなつたとある。(完)


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