五百八十七、(その三)1.竹内好編「アジア学の展開のために」、2.吉本隆明氏「共同幻想論」

平成二十六甲午
第一部 竹内好編「アジア学の展開のために」
七月十三日(日) 序章
「アジア学の展開のために」は十二のシンポジウム、対談からなる。竹内氏は序章と十一のうちの 一つに参加する。序章で竹内氏は
日本は地理上はアジアに位置するが、文化的にはアジアでないと考える人は、相当おります。いや、 理論的にそう考えるのでなくて、無意識にそう感じている人までを含めるならば、むしろそのほうが 多いのではないか、とさえ私はひそかに思います。
私はこの意見に絶対反対である。序章が書かれたのは昭和五十年。ベトナム戦争が終結した年で 共産主義の勝利であつたが、一方で日本国内では赤軍派のリンチ事件、浅間山荘事件があり、 全国の革新知事、革新市長も最盛期を過ぎて衰退に向かふ時期であつた。竹内氏の西洋かぶれが 強まつた。しかし私の感覚では一般の国民はまだアジア意識を持つてゐた。庶民と竹内氏のような 上層言論界の違ひであらう。上層は昭和五十年の時点で既に堕落してゐたのか。庶民は昭和六十 年辺りである。なぜなら欧米に旅行するなどこの頃はまだほとんど不可能だつた。旅券には一次 旅券と数次旅券があつた時代である。

七月十三日(日)その二 藤堂明保氏のコメント
藤堂明保氏と陳舜臣氏の「名と実」といふ対談は、議論をするのに中国語は割り合い明確で、中世 以降の日本文学は中国の影響で法語が多い、今の中国は言葉は人民に学べといふことで上品な 言ひ方ではないが力強い言ひ方が普通語になつたなど、標準の内容である。九ページある。ところ が対談の後にコメントと称して藤堂氏が単独で七ページ書いた。対談は二人だから一人当り五ペー ジ弱。それより多いコメントなんて奇妙である。その内容たるや最初から
中国の副首相、ケ小平氏が、ある日本人に次のように語ったそうだ。
日本が中国に対して、いろいろと損害を与えたのは歴史的な事実ですが、しかし中国も日本に対して、 申しわけないことをしている。それは(一)漢字と、(二)孔子の教え(つまり儒教)を輸出したことです、と。
うまい外交辞令だが、それは口先だけではない、深刻な意味を含んでいるようだ。
第一の漢字の問題。これは日本にとっては、損得あいなかばしていることだ。

損得あいなかばではなく得してゐる。なぜなら片仮名と平仮名が作られた後はそちらを使ふ選択肢 があつたにも係はらず漢字を使ひ続けたからだ。ケ小平がどういふ状況で語つたのか不明だが、 本当にケ小平がさう思つて発言したならケ小平が悪い。唯物論を克服できてゐない。世の中は何でも 変へてよいといふものではない。中国でもさうだが日本で漢字があることはどの地方でも共通の書き方 ができるといふことだ。表音文字だと地域で発音が異なる場合は文章まで変つてしまふ。今はテレビの 発達で共通語が普及したが、漢字が伝はつて以来、表意文字による全国一律の書き方の恩恵は大きい。
藤堂氏も漢字については得の部分を簡単に触れるに留まる。儒教について藤堂氏は建前と実際 が異なることをまづ挙げる。これについて私は儒教そのものではなく儒教の堕落したものだからだと 考へるが藤堂氏は儒教そのものの特質だといふ。

七月十三日(日)その三 音楽
シンポジウム「音楽」は小泉文夫氏(東京芸大助教授)、武満徹氏(作曲家)、藤井知昭氏(国立民族 博物館助教授)によつて行なはれた。西洋音楽を一つの民族音楽として理解するといふ見方が出て きた。タイは平均七平均律。仏教文化圏は五平均律が多く、ヒンズーやイスラムは七音が主。ミャンマ は七音。
イスラムとヒンズーの接点とか、北アジアと南アジアとか、大陸の地理的に続いたところの文化の交流、 同化はいいが、日本は明治になつて文化伝統が全く異なるヨーロッパが突然入り、両方の特徴が殺し 合つたりして奇妙なアマルガメーション(混合)ができちゃった。陸続きの民族派日本のように下手には やつてゐない。
以上の内容だつた。

第二部 吉本隆明著「共同幻想論」
七月十五日(火) 「共同幻想論」を斜め読み
「共同幻想論」は読んでもまつたく意味が判らなかつた。といふか各章を読まうとしてもすぐ読みたく なくなつた。『共同幻想論』が出されたのは一九六八年、全共闘運動がその 頂点にあったときだ。当時、既成のマルクス主義的な社会変革理論に矛盾を感じていた多くの学生たち がこの本を、変革についての新しいヴィジョンを伝えるものとして読んだ。は誉めすぎどころか 虚偽である。

七月十七日(木) 「共同幻想論」の序
私は読書をするとき序文は九割は読まない。正しく云へば序文に目は通すが九割は読まない。「共同幻想 論」は図書館に返却すべき書籍だが、行くのは次の日曜になる。そこで「序」を今朝方読んでみた。なぜ 今ごろ読むかと言へば「序」の前に「角川文庫本のための序」と「全著作集のための序」が付くため「序」に 気付かなかつた。
読んでみてなるほどと合点がいつた。この本は序に結論が書いてある。結論を読まずに本文を読むから 意味が通じないのだつた。といふことで本日の出勤電車の中で読み始めることにした。

七月十八日(金) 社会主義リアリズム論
「序」によると、この書籍は社会主義リアリズム論とアンチ社会主義リアリズム論ではなく、それを乗り 越えるものを提唱した。社会主義リアリズム論とは一九三二年にソ連共産党中央委員会で提唱され、 社会主義革命が発展しているという認識の下で歴史的具体性を以つて描くもので労働者を社会主義 精神に添ふように思想的に改造するものである。
つまり吉本隆明の「共同幻想論」はスターリニズムに対してアンチスター リニズムをも乗り越えるものである。だからと言つて西欧の社会民主主義は無視する。 つまり一切信用しない。
文学、政治思想、経済学。それらを統一する視点を幻想領域と名付けた。上部構造といつてもいいが、 既成のいろいろな概念が付着してゐるから使はない。
そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提 がある。そういう幻想領域を扱うときには、(中略)下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞける ことができるんだ、そういう前提があるんです。(中略)ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を 介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。
はっきりさせるために逆にいいますと、経済的諸範疇を取り扱う場合には幻想領域は捨象することができる わけです。

ここまで同感である。上部構造は下部構造の影響を受ける。しかし上部構造は上部構造で独立である。 下部構造が決まれば上部構造が決まるといふものではない。それでは唯物論である。吉本氏は次に
一般にマルクス主義といわれている概念がありますね、それは史的 唯物論と弁証法的唯物論を基礎としたマルクス主義というふうなものがあるわけです。それはほんとうを いえばロシアで発展され、そして世界の半分で展開されている(中略)ほんとうをいえばロシア的マルクス主義 ですよ。
ここも同感である。更に言えば吉本氏は述べてゐないがマルクスの思想自体がドイツやイギリスで展開された 西欧マルクス主義であり、マルクスの思想を西欧ではなく世界に当てはめたものが本当のマルクス主義 ではないだらうか。

七月十九日(土) 第一章禁制論から第5章他界論まで
禁制論から他界論までは遠野物語を原典に話が進む。第三章の巫覡論では<いづな使い>の話が出てくる。 或る村人が遠野の町で見知らぬ旅人に出会つた。あの家にどんな病人がゐる、この家ではこんなことがあつた と云ふのだがすべて符合する。理由を尋ねると小さな白い狐を持つてゐるからだといふ。村人は狐を買ひ取り よく当たる占ひ師になり金持ちになつたが、数年後に当たらなくなり元の貧乏に戻つた。
もう一つ別の話もある。村の某が種狐をもらひ、術を行なふとよく当つた。ところが当らなくなつた。二つの話で ある年数が経つと<いづな使い>が能力を失ふことについて吉本氏は
その理由は二様にかんがえられる。<いづな使い>自身が富むことで生活が雑ぱくになり、雑念がおおくて 心的な集中や拡散を統御できにくくなるためであり、もうひとつは村民たちの共同利害の内部で、階層的な 対立や矛盾がおおくなり、<いづな>という共同幻想の象徴に、すべての村民たちの心を集中させることが むつかしくなるためである。

この考察に賛成である。創価学会が破竹の勢ひを停止させたのはこの二つの理由による( 昭和四十五年以前の創価学会を体験しようへ)。

七月十九日(土)その二 第六章祭儀論
第六章は最初に興味ある話が出てくる。それは自己幻想と共同幻想の話、共同幻想を人々が現代的に、 社会主義的な国家と解しても、資本主義的な国家と解しても、反体制的な組織の共同体と解しても、小さな サークルの共同体と解しても構はないといふ。
「序」を例外として、今まで読んで来た本文の中で巫覡論の<いづな使い>だけが印象に残つたからこの章は 特別なのだらう、「共同幻想論」は雑誌「文芸」に昭和四一年から翌年に掛けて連載された前半の章と、新たに 書き下ろした後半の章から構成されるから、この章が後半の最初でその後はこの章と同じで興味ある話が続く のだらう。雑誌に書くとどうしても生活のための収入といふ意味合ひが強いから前半は興味が湧かなかつたの だらう。さう期待してこの章より後を読んだが、興味のあつたのは五つの章のうち一つだけだつた。祭儀論から 引用は古事記に変はるがそれはあまり意味がない。雑誌掲載の最終回なので吉本氏が発奮したのだと思ふ。

七月十九日(土)その三 第七章母制論から第十一章起源論まで
後半で興味のあつたのは第十章規範論である。
なかば<宗教>であり、なかば<法>だというような中間的な状態を、いま<規範>とよべば、この<規範>には さまざまな位相がかんがえられる。(中略)だが<宗教>からはじまって<法>や<国家>にまで貫かれてゆく <規範>には特定の位相がある。ひとつは、はじめの<宗教>が共同性をもっているだけではなく、その内部で 系列化がおこっていることである。もうひとつはその<宗教>が、共同体の現実の利害をさすような方向性をもつ ことである。(中略)こういう<宗教>は、ほとんど習慣にちかいところで平衡状態に達して安定する。このばあい 宗教的な儀式と共同体の利害とが平衡するのである。この状態で<宗教>は<宗教>と<法>とに分裂する。 おなじようにして<法>は<法>と政治的な<国家>に分裂する。

七月二十日(日) 読み終へて
全体を読み終へて印象に残つたのはこれだけだから極めて少ない。それは吉本氏が最古のものを伝統文化と 見るのに対し、私は長い年月を経て平衡に達したものから堕落分を引いたものを伝統文化と見るからその違ひ である。
だから吉本氏の主張は「序」にあり、本文は民俗学に興味のある人向けの文芸である。しかし共産主義者であり 新左翼の中心的存在である吉本氏が経済一本槍ではなく上部構造を重視したことは重要である。更には社会 民主主義や自由主義を賞賛しなかつたことも重要である。(完)


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