六百四(丁)、日本画とは何か

平成二十六甲午
九月二十七日(土) 昔からあつた朦朧体
細野正信監修「日本絵画の楽しみ方 完全ガイド」で絵を追つて行かう。土佐光信「四季花木図屏風」といふ十五世紀の絵には、 空間の霞や、輪郭線のない紅葉など明治三十年代に批判された朦朧体が存在する。
雪舟等楊の「天橋立図」も十五世紀から十六世紀の絵だが、雲の掛かる山は明治三十年代なら朦朧体と批判されただらう。狩野 正信の「竹石白鶴図屏風」も背後の山と霞、竹と木に射し込む光は朦朧体である。
以上は絵の一部分についてだが長谷川等伯の「松林図屏風」といふ十六世紀末の作品は絵全体が朦朧体である。

つまり朦朧体は昔からあつたにも関はらず、日本美術院は批判された。そこには天心が東京美術学校を追ひ出されたため、伝統派 が反撃に回つたとも考へられるが、別の理由もあり得る。それは明治維新から三十年辺りまで過度に流入した西洋文化への世間の 反感が日本美術院に対して過剰に反応したことだ。西洋画風に浸食される日本画界からすれば日本美術院の行き方は西洋折衷 と見えたのだらう。
霞や輪郭線のない画法は洋画を取り入れたのではなく昔からあつたことで反論すればよかつた。

十月二日(木) 明治維新前に入つてゐた洋画技術
小田野直武は秋田藩士の第四子として生まれ藩の御用絵師から狩野派の筆法を学び、宋紫石の絵から中国画を学んだ。鉱山開発 のため秋田を訪れた平賀源内は直武の絵を見て才能を見抜き、直後に直武は藩の命令で江戸に赴任。源内の元で書物や輸入銅版画 を模写し西洋画を学んだ。更に杉田玄白の解体新書の大量の絵を写した。直武の「不忍池図(しのばずのいけず)」を観ると陰影のある 樹木や鉢と遠近法の背景はまさしく洋画である。
司馬江漢は、蘭学者、浮世絵師、画家。鈴木春信に学んで浮世絵師になり、西洋画法にも通じた宋紫石の門に入り漢画家になる。小田野 直武にも師事したと言はれ洋風画を学ぶ。「富岳図」を観ると風景は日本画だが海の波が洋画である。私が思ふには全体では日本画で洋画 の義奉を取り入れたものである。
直武の「不忍池図」が限りなく洋画に近いのに対して江漢の「富岳図」は日本画そのものである。どちらも批判されるものではない。大観や 春草の朦朧体が大きく批判されたのは、明治中期の西洋文明を批判的に見るようになつた時期に、朦朧体が現れた。そこを反天心派が 大々的に騒いだため起きた。もし江戸時代中期に大観や春草の絵が現れたなら起きなかつただらう。

十月三日(金) 「花ひらく近代日本画」その一
平成二(1990)年に日本美術院百年史刊行記念展「花ひらく近代日本画」が東京、京都、横浜の高島屋で開かれた。主催は日本美術院と 朝日新聞社である。そのとき出版された解説書を観ると、同じ画伯の作品を幾つも比べることができる。
橋本雅邦は明治三十一年から三十四年にかけて六つの作品が出品された。幕末から明治の初期までは狩野派の高弟だつた人で、いづれも 背景は朦朧体である。朦朧体が天心、大観、春草の発明でないことが明らかになる。水野年方は明治三十一年の「佐藤忠信参館之図」「御殿 女中」のような伝統的な絵を描く一方で、明治四十一年には「阿新丸」で縁側に射す日の光を描く。寺崎廣業の明治三十二年「富嶽海辺図」は 伝統的だが追加作品として明治三十五年「湖山春色」は「比較的古典的な廣業としては、珍しく朦朧体風の作品である」と解説が付けられて ゐる。横山大観の明治三十年「帰牛」、三十三年「朝顔日記」は伝統的な一方で同年「菜の花」は超朦朧体で霞を現し、三十四年「水鏡」は 伝統的でありながら水に映つた姿が朦朧体といふ趣向を凝らした。下村観山の裸婦の模写はこれ一枚で展覧会全体を駄目にする。日本古来 の伝統で裸婦はよくない。尤も観山が描いたのは西洋の画法の勉強のためである。それを載せてはいけない。朝日新聞が絡むとこんな醜態を 演じてしまふのかといふ感想である。尤も場合にもよる。かつて黒田清輝など洋画家が裸婦を出展しようとして伝統派から反対意見が出たが 天心らが出展に賛成したこともある。

十月五日(日) 「花ひらく近代日本画」その二
第八回日本絵画協会第三回日本美術院連合絵画共進会が明治三十三年四月に開催された。ジャーナリズムは朦朧体を非難したため入場者 は前回から半減した。解説書によると
天心の先見性は鋭く、前述の第八回共進会に先立つ研究会で次のように発言している。
「(前略)今後は主として規模の宏大と筆力の雄健とに注意せざるべからず。古来、宋人並に雪舟等の画にはボーとして規模宏大なるものあり。」(『日本美術』明33・3)
といい、探幽、応挙以後の「全局のシマリ」のない「小規模の構成、即ち意匠を非難している。天心は空気描法が必然的に線を失う結果をもたらした ことに早くも警鐘を鳴らすとともに、線の消えたのちの色彩問題にも言及、洋画家の川村清雄も呼んで、「絵具を首(はじ)め絵画材料の質的改良 も心掛けたきものなり」と提案している。これに対し、日本画的な油絵を描いていた巴会の川村は、「従来の日本絵具其儘にても、油絵ほどの効果を 呈するに十分なるべければ、之が改良は敢て目下の急務にあらず」と応じている。そこで出席の面々は、大いに筆力墨色を発揮しようと意気込み、 この際、描線を主として暈染を次位におこうとする意見を述べ(以下略)


十月五日(日)その二 日本画の特長
日本画の特長は描線が美しい、陰影がない、遠近法がないことで、この三つは洋画と比べて日本画の優れたところである。決して多くの人の考へる ように欠点ではない。 まず目の前の風景を見よう。物と背景の境に線はない。しかし頭の中では線があると感じる。決して色彩の違ひではない。物と背景では距離感が 違ふし人間の頭には物体を一つのものに纏める能力がある。決して色彩の違ひだけではない。だから線を入れることは理に適ふ。物の周りに線を 描くか描かないかは場合による。そこに作者の意図を見ることもできる。
陰影があるのはそこに太陽光或いは電灯の光があるからだ。絵からは光が出ない。だから陰影をつけないことは理に適ふ。物と背景は距離が 違ふ。左右の目は距離感を区別するが平面の絵画には距離がない。だから遠近法を用いないことは理に適ふ。

天心はなぜ伝統を脱しようとしたのだらうか。一つには輸出を考へたのではないか。絵画を輸出すれば外貨稼ぎになる。明治維新後の日本は外貨 を必要とした。朦朧体は欧米では人気があり高額で売れた。

十月十一日(土) 東京藝術大学大学美術館准教授古田亮氏の主張
別冊太陽「近代日本の画家たち、日本画・洋画 美の競演」の最初のページに東京藝術大学大学美術館准教授古田亮氏の主張が2ページに亘り載つて ゐる。この主張には徹頭徹尾反対である。
どうして近代以前には日本画家はいないのだろうか。もう一つ、どうして近代の画家には日本画家と洋画家しかいないのだろうか。

といふが近代以前の画家が明治維新後は日本画家になつた。つまり日本画家が昔から今に至るまで続き、明治維新後に洋画家が誕生した。更に言へば、 我々は日本語のことを国語、或いは単に言葉、文章と呼ぶのと同じように、狭い意味の画家が昔から今でも続いてゐるし、明治維新後は洋画家といふものも 誕生した。狭い意味の画家と洋画家を含めて広い意味の画家と呼ぶ。こんなことは当り前ではないか。東京藝術大学といふのは税金の無駄遣ひではない のか。心配になつてくる。
日本人(西洋かぶれを除く)が鑑賞して心地よいと感じるものは洋画であつても日本画である。西洋の猿真似で描いたものは洋画である。これが正解であらう。

十月十一日(土)その二 今泉雄作「日本画の知識及び鑑定法」
「日本画の知識及び鑑定法」は大正九年に発行され、平成十九年に改訂版が出された。今読んでも情報の古さを感じさせない名著である。書籍の奥付に よると今泉氏は岡倉天心らと美術学校を創立。東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)教官、京都市美術工芸学校校長、 東京帝室博物館美術部長・美術工芸部長等を歴任。(中略)昭和6年歿、82歳。とある。「第一編古代の絵画」、「第二編倭絵の名家と名作」、 「第三編東山時代の諸家」に続き「第四編狩野派の諸家」には次の記述がある。まづ「七、狩野常信とその以後」に
東山時代に狩野正信に依って起こり、(中略)遂に探幽に至ってその高頂に達したが、これを限りとして下り坂となり、(中略)概ね徒に探幽または常信の 模して残して呉れた粉本に依って描く外、自ら新意を出し得ざるは勿論、その粉本類の散逸し、紛雑するにつれて、遂には依嘱に応じて如何なる図柄 にでも筆を揮うということも出来ず、甚だしきは家の図ではないから描けないと言って謝絶し、僅かに父祖の粉本あるもののみで誤魔化しておく、情けない 結果に陥ってしまった。

東京美術学校や日本美術院の活躍を伝統画と西洋画の中間と見る意見があるが、当時の日本画はこの体たらくだつたから、粉本を超えれば、あるいは 西洋から技術が次々と流入する中では、東京美術学校や日本美術院の行つたことは当然のことであつた。次に「八、狩野芳崖と橋本雅邦」では
明治の後半から大正の今日にかけて、(中略)かつてあるとくべつな階級にのみに現れた絵画は、今や国民一般の鑑賞物となり(以下略)。

そのような中で狩野芳崖と橋本雅邦が新しい作風を世に現したのは当然であつた。まづ橋本雅邦について
雅邦の画はその精謹なること宋元の如く、雄渾なること雪舟の如く、飄逸なること雪村・守景の如く、瀟洒もなること円山四条の如く、豊麗なること宗達・光琳 の如く(以下略)

と讃へた。狩野芳崖については
芳崖には水墨の画多く、山水に一機軸を出した。勁健の筆と和柔の筆とを併せ用い、鮮かにして風致豊かなる画を作った。然し彼の特技はむしろその人物画 にある。彩色の妙にある。かつて日本画の色の洋画に及ばざるを言う者あるや、「及ばざるにあらず、為さざるなり」とて、日本絵具を以て『仁王捉鬼図(におう おにをとらうず)』を作り時人を驚かしたという。

十月十二日(日) 今泉雄作「日本画の知識及び鑑定法」追記、各派の関係がよく判る
この書籍は名著であるので、狩野芳崖と橋本雅邦以外の記事も紹介したい。「第五編 宗達・光琳派」には
戦国時代より桃山時代の過渡期を経て徳川時代に入ると、世の泰平に向うにつれて、絵画の上にも種々の新傾向が現れた。しかし、狩野派、 土佐派などは全然新しくなった訳ではないが、一番始めに新派らしい画を出したのは、浮世絵と、一種の装飾画とであった。そして共に狩野派 を父とし、土佐派を母として育った生児であれど、浮世絵は割合に広く蔓り、画風も四分五烈をなしたのに対して画家の数は比較的少数であって、 しかも一粒揃いの名作を遺したのは宗達・光琳派である。

多くの日本画解説書は各派、浮世絵を並列して解説するので相互の関係が判らないが、このように書くと判りやすい。根底に日本画を興隆しよう といふ意欲があるからであらう。宗達・光琳派について
一に曰く、狩野から出発して古土佐を参照し、さらに新しい画風を開こうとしたこと、二に曰く、写実または写意の画に対して装飾的の方面に 向かったこと、三に曰く、水墨よりも彩色を以て画の貴重としたことの如きこれであろう。(中略)彼らは新派を立てたとは言え、円山・四条の諸家 のように写実に僻して、物の外形・色彩のみを写そうとはしなかった。三人共に花卉を得意としたから写実を軽んずるようなことはなかったが、決して それだけに満足は出来なかった。さればとて、南宗画家の如く専ら思想的方面・精神的方面へのみ入り込むこともなさなかった。彼らは別に装飾画 の方へ道を開いたのである。(中略)実は日本に(或いは支那にも)専らこの方面へ足を向けた画家はこれまで少かったのである。

その一方で
ただ、絵画の真の睨(ねら)い所は斯様なものであるかとなると、それは問題である。すなわち本筋の絵画はこの方面へ向かって進んでよいかとなると 色々疑問が起こって来る。
つまり支那宗元の本流を汲んで、雪舟・正信等の絵が出来、それを承けて狩野派となり、或いは唐代の本流を汲んで古土佐となり、新しい土佐となった ものを本流と見ならば、光琳派の如きは傍流と言わなくてはならぬだろう。(中略)しかし、光琳派のやった仕事は他に類のないものではあった。殊にその 色彩の使い工合等に、自派は勿論、他派をも刺激して、余程進歩を助けている。すなわち狩野の墨色と土佐の色彩とをうまく融け合わせて、彩墨一如 の働きをさせた苦心は、殊に光琳の手柄として推さなくてはならぬ。そして狩野派では水墨の線が主となって、それに色を施してあるし、前土佐では色を 主として、それに墨の線を入れてあったので、いずれも主とする所を異にしていたのを、光琳等は墨も色も同じように取扱って、或いは白緑流(びゃくろくなが) しによって、色で行く所を墨の中へ色を流しかけてやるとか、また墨の濃淡で描くべき葉の筋などを金でやるとかして(中略)その用い方に気の利いた所が あった。従って出来上ったものは、円山派のように優婉一方でもなければ、雲谷派(うんこくは)などのような、版で押したような堅苦しいものでもない、一種の 派手で、かつ落ちついた纏まりのある画に拵え上げられたのである。


十月十三日(月) 今泉雄作「日本画の知識及び鑑定法」追記その二、円山・四条派と文人画
「第六編 円山・四条派その他京都各派」には
狩野派が幕府を中心とせる上流武人に迎えられ、土佐派が禁庭または柳営の御用を専らとするに対して、前に起こった宗達・光琳派は、その 装飾美術的特色と相待って、町人閥の要求に応ずることとなり、同じ頃より世に出でた浮世絵はさらに庶民階級の趣向に投ずることとなった。 然るに徳川時代の中頃に入りて、一種の中流階級とも目すべき一階級のために起こったのが、文人画並びに円山・四条の一派であった。

円山・四条派について
忠実なる写生主義に出発して写生主義に終るものと言わねばならぬ。極端に言えば、 単に外部の形体、色彩の写生をこれ事とするの外、他に何物もないのである。

次に「第七編 何宗(文人)画の諸家」で
董其昌(とうきしょう)の説に拠れば(中略)唐に王維(おうい)と李思訓(りしくん)という二人の名家があった。(中略)王の方は南方の山水、すなわち 大江平遠の趣を好んで描いたが、李の方は北方の岩石峨々たる嶮岨の景などを好んで描いた。それに王の方と李の方とは絵の描き方も違う所 から、禅宗の南宗・北週るに倣って、王の風を南宗、李の風を北宗と云うことになった。/しかし南北とも唐時代の画と現今の画とは描き方が違う。

といふことで南北に分けることは意味がない。しかも中国の真似で文人が趣味として描く文人画になつたが、日本では職業として描く人がほとんど だつた。画に漢文を添へることも流行したが、この辺りは文人の傾向を帯びたかも知れない。しかし江戸時代末期に西洋文明が日本に押し寄せ、 清国が阿片戦争でイギリスに敗れるに及び、文人画は下火になつた。

十月十三日(月)その二 日本画とは
日本画とは日本人が観て心地よい絵画である。更には床の間に掛けて美しい絵画である。西洋にあるからといふ理由で我慢して見る絵は日本画 ではない。特に明治維新後に政府の政策で意図的に入つたものは日本画ではない。前述の別冊太陽「近代日本の画家たち、日本画・洋画美の競演」 を見ると司馬江漢の「駿州薩陀山富士遠望図」は床の間に掛けても心地よいから日本画である。高橋由一の「美人(花魁)」は油絵で描いてどぎつい から日本画失格。百武兼行に限らず裸婦画はすべて失格である。浅井忠の「春畝」は日本画、小田野直武、司馬江漢、高橋由一の不忍池はすべて 日本画、河鍋暁斎の「釈迦如来図」は顔が西洋の肖像画の真似でしかも鬼の顔で失格。反抗と前衛といふページ以降、奇妙な絵が多くなる。これらは 自称芸術家たちの自己満足だけで、洋画の行き着く先がかう云ふものになるといふこと自体が西洋文明の欠陥である。(完)


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