五百九十 山口県はなぜ菅、亜倍といふ悪質な政治屋を生んだか(その三、坂本龍馬になり損ねた男、赤根武人)

平成二十六甲午
八月四日(月) 卑怯者山県有朋が赤根武人を誹謗
新人物往来社の「奇兵隊悲話」は章ごとに別の著者が奇兵隊関係者について書く。西嶋量三郎 「赤根武人」の章では奇兵隊総督でありながら刑死した赤根武人について記す。明治四十四年に 伯爵大原重朝が、赤根武人の贈位申請をした。それに対し山県有朋は次のように回答した。長州 の外国船舶砲撃に対して英米仏蘭の艦隊が報復に来航したときについて
敵三道より進み隊長林半七重傷、赤根と会って守禦を議せんとするに赤根去って影なし、両日の 戦争中赤根殆ど一令を発せず隊中侮る所となる。兵士総管遁走と憤慨


ところが赤根の本隊に従軍してゐた白石正一郎によると
終に引口相立一先引上ケ二三丁引退、総管赤根ふみとどまり清水茶屋の所へ五六十人 残り候へ共


山県は故意に赤根を誹謗した。山口県出身の悪徳政治屋の管が、公約に違反して突然消費税 増税を言ひ出したときに、管は小沢氏を西郷隆盛に例へた。最後は滅んだといふ意味である。 当ホームページは管を山県有朋に例へた。上昇志向が強いだけ で国民から軽蔑されたところがそつくりである。

八月五日(火) 二重の坂本龍馬
赤根武人は持病と眼病のため一時総督を休職したと前に読んだ本には書かれてゐたが、西嶋 量三郎氏は、外国艦隊との戦いで攘夷が不可能なことを知り、攘夷が目的の奇兵隊総督の座 にゐるべきではないと考へたと推定する。以上は推定に過ぎないが辞職届を出したといふ事実 は重要である。
赤根は一ヶ月後、奇兵隊に復帰した。西嶋氏は回天実記と七卿在西日誌を比べて、前者は奇兵隊を 「俗論退治の義兵」と述べているのに対し、後者は 武人が両者の間に和平を画策しようという心情が読みとれる。

ここで赤根武人は俗論派と新俗論派(自称正義派)の間を取り持たうとした。つまり長州藩の 坂本龍馬である。次に幕府軍の長州征伐について
西郷吉之助は当初、強硬な長州討伐方針を持っていたが、しだいに長州寛典・征長軍早期 撤収の方向に傾いて行った。

そして強硬派の不満を抑へるため三家老四参謀の処刑、五卿の九州への移転などで強硬派を 納得させたといふ。今の日本史ではこれらの条件は俗論派の欠陥として教科書にも歴史書にも 書かれてゐる。しかしこれらは西郷隆盛(及びその背後の薩摩藩)により提案されたといふ。そして
武人は直接、自分で藩公の真意を確かめたかったし、諸隊の 哀情も耳に入れたいということで二十七日、萩に向かった。武人は藩公の真意が和平恭順にある ことを知って、十二月八日、長府に帰って来ると、しきりに諸隊の領袖たちに和平を説き、五卿 転座の必要を説いた。

赤根武人は薩摩との和平も望んだ。つまり赤根武人こそ長州藩内と日本全体の両方で坂本龍馬 の役を演じるはずだつた。それを後世に歪曲させたのが山県有朋である。

八月六日(水) 高杉の挙兵と正義派の処刑
前日の七日には、淵上幾太郎と筑紫衛が筑前の死者として萩を訪れ、 諸隊鎮静のために、正義派の前田孫右衛門らの謹慎を解いて再登用するよう進言している。(中略) この時点では俗論派も、まだ前田らの処刑は考えていなかったと言えよう。十一日には西郷が下関 に来て、筑前の月形洗蔵や早川養敬と教義しているが、後の西郷の手紙によると、このとき、赤根 武人も同席したようである。

これでうまく話がまとまり、長州藩は俗論派と正義派の連立となり、長州と薩摩はうまく行き、更には 幕府ともうまく行くはずだつた。
ところが、ここに大変事が起きた。高杉晋作の暴発である。(中略)高杉ほどの男が、なぜ十五万の 征長軍に囲まれ、征長軍の巡見使が長州謝罪の上京を査察に来るという日に(中略)挙兵したのか 謎である。まことに危ない「賭け」だったと言えよう。萩に来ていた巡見使先発隊の長谷川惣蔵は、 この報を聞くと怒って、「巡見使派遣は中止、諸隊は幕軍が出兵して鎮圧する」と言った。驚いた藩 では早速、諸隊の武力討伐を決した。そうして(中略)正義派の前政務員前田孫右衛門ら七名を 捕らえ、十九日、斬に処してしまったのである。(中略)西郷や武人が恐れていた最悪の事態に なろうとしていた。(中略)西郷の驚愕と失望は大きかった。『吉川周旋記』には、「大島余程力を 落候様子にて、(以下略)」と記している。



八月七日(木) 赤根武人は元祖坂本龍馬だ
十七日、諸隊も動き出し、内戦が始まろうとしていた。武人の苦悩は大きい。藩公に国内協和を 約束した自分が、今、奇兵隊を率いて藩政府と戦おうとしている。(中略)武人は十八日、奇兵隊 を脱走して馬関に向かい(中略)伊藤俊輔を呼び出し、高杉との離反を画策したが失敗し、かえって 生命を狙われることになって、正月二日、九州へ脱出したのであった。

本来は、幕府軍が長州の内戦に介入すべきだつた。しかし長州が滅亡すると幕府が強くなりすぎる。
西郷は解兵を急いだ。巡見使が萩・山口の視察を終えて広島に 帰って来るのを待っていたように、翌日、征長総督は「陣払い」を布令した。


長州の内戦は一月五日に始まり二十八日俗論政府は崩壊した。この当時の赤根の考へが養母に 宛てた手紙にあり、西嶋氏が要約した。
(前略)高杉晋作らは私の意見を聞きわけず挙兵しましたので、萩の俗論派は、ついに前田以下有志 の人々を斬殺してしまいました。(中略)最近の情勢では、諸隊が打ち勝って正義派が勢いを得てきて、 お国の大幸と喜んでおります。(中略)薩摩の大島三右衛門とも会ったところ、上京して陰ながら長州 を援け、朝廷を奉じて幕府を討つという考えも確かに察しました。(中略)一昨日赤間関まで帰りましたが、 (中略)斬れの突けのと無頼無情のあら男どもが頼りに私を探索しているそうです。


赤根はその後、大坂で幕府に捕らへられ八ヶ月の獄中生活の後に長州に戻り、あちこち和平周旋 するが受け入れられず処刑された。
赤根武人の悲劇は死後も続く。前に述べたように、明治から対象にかけて遺族や史家たちが冤罪を 訴え、贈位申請をしたのに対し、時の顕官山県有朋は猛烈に反対して、その事跡を「反逆悖乱(はい らん)」のこととして否定してしまったのである。


亜倍のすべきは菅直人と野田を嘘つき政治屋と閣議決定し、その一方で赤根武人を贈位、山県有 朋を剥位すべきだ。

八月八日(金) 奇兵隊始末記
中原雅夫著「奇兵隊始末記」は斜め読みどころかページ読み(1ページの単語五個くらいを読んで 次のページに進む)が多くなる。しかし役立つ資料もあるので引用しよう。外国艦隊が下関を報復 攻撃し長州が大敗したときについて「奇兵隊日記」に
八月四日の項に二人の隊員の処分のことが記してあるばかりで、重要な連合艦隊との戦いのこと はまったく出てこないのである。(中略)その記事の後に「以下欠帖」とあるところをみると、八月五日 からの記事がのちに何者かによって破棄されたということがはっきりしている。(中略)この空白は 総督赤根武人の功績を除くためであると解釈する人がある。赤根はこの戦いでは大いに奮戦して いる。


もう一つ役立つ資料がある。
奇兵隊はもっとも多い時で五百人を超えていた。(中略)延人員にすれば千人をはるかに超えて いたことは明らかである。
その千人を超える奇兵隊員が、戦死し、処刑され、除隊、あるいは脱退し、明治二年常備軍ができた 時六十人が編入され、それ以後奇兵隊の名称はなくなった。


千人のうち残つたのは六十人。多数の国民を無視し財務省とニセ労組シロアリ連合のいふことだけに 従ふ菅や安倍の悪の根源はここにあつた。


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