五百九十 山口県はなぜ菅、亜倍といふ悪質な政治屋を生んだか(その二、一坂太郎著「高杉晋作」)

平成二十六甲午
七月二十四日(木) 坂時存
一坂太郎氏の「高杉晋作」は良書である。平成十四年の出版にも係らず西洋かぶれのところがない。 まづ目に入つたのは
幕末の長州藩には、日本中を敵にまわして戦っても勝てるだけの、厖大な蓄えがあったという事だ。 維新が成ってなお、百万両以上の大金が残っていたという。


この功績者は晋作の生まれる八十年前の坂時存で、
隠居の身で八十歳にむなっていたにもかかわらず、七代毛利重就(英雲公)に登用され、財政再建の 指導を任される。
時存は研究の末、良港の直轄、新田の開発調査、荒廃田の復活など新財源獲得のための制作を 具体的に示した。


翌年八十一歳で亡くなつたがその後も藩による審議は続き四万石以上の増収を得た。
こうして宝暦十三年春、藩財政史上、一新紀元を画すこととなる「撫育方(ぶいくかた)」が誕生した。 撫育方の収入(撫育金)を一般会計へ混同することは厳に戒められ、産業開発など新規事業に投資され(中略) 幕末の頃、武器や軍艦を購入するための軍資金として放出されることになる。


時存の次男は高杉春信の養子になりその子が小左衛門春明で晋作の曽祖父である。

七月二十六日(土) 長井雅楽
晋作が世子小姓役に就任した頃、長州藩は、二百数十年来の悲願だった 中央へと乗り出そうとしていた。その手土産として文久元年三月二十八日、藩主慶親は直目付長井雅楽 が建言した『航海遠略策』を採用し、藩論に定める。
『航海遠略策』は(中略)幕府が行った開国を既成事実として認め、朝廷の鎖国攘夷を改めさせた上で 公武一和となり国難にあたり、世界に雄飛しようとする堂々たる開国論である。
公武周旋の君命を受けた長井は、長州藩を代表して京都や江戸に赴き、朝廷や幕府の要人たちを 説いてまわった。その結果、「知弁第一」と評された長井は幕府はもちろん、朝廷からも多くの支持を 集めることに成功する。孝明天皇までが、『航海遠略策』に乗り気だったという。

今まで長州の派閥は村田清風、周布政之助の系譜の改革派と、坪井九右衛門、椋梨藤太の保守派 だけに注目し、長井雅楽のことは知らなかつた。しかしこの航海遠略策はよいことを言つてゐる。それ に対し久坂玄瑞は長井暗殺を企てる。私は今まで久坂玄瑞は潔癖の士と思つてゐたが考へが変つた。 晋作は久坂と異なり長井を評価してゐたといふ。それは晋作の作つた藩の人事案に、藩主の側近と して毛利登人、林主悦、長井雅楽を挙げてゐる。

久坂は執拗に長井排斥運動を続けて長井は失脚、翌年切腹を命じられた。

七月二十六日(土)その二 高杉と攘夷
尊攘派の時代を築いた長州藩自体の評判はあまり良くなかった。急激な 方向転換が軽薄と見られたのだ。晋作の耳には「始めは航海を唱え、今日にいたっては切迫の攘夷も 唱え候段、不信のいたり、これ定めて天下を惑乱するの術なり」といった悪評まで入ってくる(以下略)。

そこで高杉らは英国公使館焼き討ちを実行した。久坂は
藩内を一本化するため、亡き「吉田松陰」を尊皇攘夷のシンボルとして 祭り上げようとしていた。(中略)改葬は、かつて萩の人々から「乱民」と呼ばれ、罪人として死んだ松陰 が、「志士」として公認され、復権したことを意味していた。(中略)藩は梅太郎に松陰の遺著を明倫館に 提出するよう命じる。生徒たちに読ませ、「尊王士気」を「鼓舞」する目的である(以下略)。


改葬は久坂らが勝手にやつたと多くの人に思はれてゐるが、幕府の許可を得て長州藩所有の火除地 に埋葬したのだつた。文久二年将軍家茂は三千の兵を率いて京に入つた。
家茂は、三月十一日に天皇が攘夷祈願する賀茂行幸に供奉させられる。これは長州藩世子が 鷹司関白を動かし、実現したことだった。将軍は天皇の臣下であるという上下関係を、民衆にまで見せ つける意味もあったのだ。(中略)藩は京都に呼び寄せた晋作を、朝廷側との交渉役である学習院用掛 に就かせようと考えていた。この時期の花形ともいえるポジションである。
ところが晋作はその役を辞退し(中略)十年の暇を願い出る。それが許されるや、翌十六日には頭を丸 め、僧形になってしまった。


七月二十七日(日) 攘夷断行とその後
将軍は孝明天皇に攘夷を誓つた。しかし紀元までに実行したのは長州藩だけだつた。そしてアメリカと フランスの軍艦から報復攻撃を受けた。
敗戦を山口の居館で聞いた藩主は、大いに怒る。その何日か前、晋作は藩命により急遽山口に呼び 出され、待機していた。(中略)御前に呼び出された晋作は、藩主父子から軍備の立て直しにつき、何か 良策はないかと問われた。(中略)「願わくば馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一昨り、講う、有志の士を 募り一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」


奇兵隊は攘夷のための軍隊だつた。とかく倒幕のため、或いは四民平等のためと誤解されてゐる。だから
農民が奇兵隊に入ったからといって、身分はもとのままである。同じ 隊士でも服装から髪形に至るまで、士庶の別は歴然とあった。


京では八月十八日の政変が起こり、七卿は長州に亡命した。
政変の報が下関に届いた八月二十五日、晋作は奇兵隊を率い、すぐさま京都に上ろうとした。しかし 二十八日になり世子の手紙がもたらされ、上京はひとまず取りやめとなる。


その後、蛤御門の変で徴収は大敗する。久坂を始め多くの松下村塾出身者が死亡或いは自決するが
桂小五郎は、ここで死んでも無駄死にと感じたのだろう。敗北が 決まるや河原町の藩邸に火を放ち、乞食に身をやつして戦後の京都を脱出し(以下略)。


多くの者が不名誉より死を選び、それは高杉も例外ではない。それに対して 桂の生への執着は当時の武士とは異なる。この貪欲さが明治維新後の奇兵隊解散や農民への圧制 に繋がるのであらう。一悪栄えて万骨枯るであり、菅直人や亜倍の見本である。政治家になるには 多くの落選者或いは出馬すら出来ない人たちを乗り越えなくてはいけない。万骨を乗り越えて自分だけ 栄えようとするその根性の原型はここにあつた。


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