五百九十 山口県はなぜ菅、亜倍といふ悪質な政治屋を生んだか(その四、伊藤博文、山縣有朋、井上馨の虚構)

平成二十六甲午
八月九日(土) 青山忠正著「高杉晋作と奇兵隊」八割が虚構
青山忠正著「高杉晋作と奇兵隊」は第一章に入る前のプロローグで、晋作の墓の脇に巨大な顕彰碑 があり、伊藤博文の書いた動如雷電発如風雨で始まる漢文を紹介する。禁門の変の後に諸隊が 俗論党を討ち破つた話である。青山氏はこれについて
要するに長州毛利家における「俗論」党打倒、「藩論」統一のさきがけをなしたのは高杉による馬関 挙兵であり、それに当初から加わっていたのは自分(伊藤)たちだったというストーリーが、ここには 盛り込まれている。そして、このストーリーは、現在に至るまで、高杉伝と言わず、長州藩幕末史の 定説になっているようだ。
結論だけを先に言ってしまえば、このストーリーは、本文で記述かるように八割がた虚構である。その ような虚構が、なぜ碑文に記されるのか。それは、伊藤博文や山縣有朋、井上馨といった長州閥の 「元勲」たちにとって、高杉と行動をともにしたことは、自らの過去を装飾し、さらには現在の政治的 立場を強固にしてくれる華々しい経歴だったからである。


菅直人は自分たちのことを奇兵隊内閣と自称した。その亜流の安倍晋三の名は晋作から付けられた ものだそうだ。どこまで虚構の上に乗つた連中なのだらうか。

八月九日(土)その二 第一章
藩とは天下の藩屏の意味で十九世紀に入る頃から用いられるようになつたといふ。それまでは例へば 坂本龍馬は山内家の郷士坂本八平の厄介(部屋住み)であり、長兄権平が家督を継いだ安政三年(一 八五六)二月以降は、郷士坂本権平弟である。そう言はれると成程と納得する。
納得できないものもごく僅かだがある。
松陰の門下生の中でも、晋作は松陰に最も近い存在だった。「龍虎」と並び称された久坂玄瑞以上である。
久坂と高杉は同格だと思ふ。否、久坂は松陰の妹と結婚し人望も厚い。高杉は人望が 薄い。山縣有朋は後に
「高杉という人は何人に向かっても、自身が下り向きに坐らなければ承知できない人で、またそうする実力 を備えていた人であったが、自分などはいつ何時、彼のために腹を切らされる事があるかも知れないと 思って、絶えずその覚悟をしていた」

伊藤、山縣、井上など上に諂ひ下には威張り散らす体質はここから出たのだらう。そうでにければ高杉に 切腹を命じられたはずだ。財務省とニセ労組シロアリ連合の圧力には屈し、国民を搾取対象としか見ない 菅や安倍の源流である。

八月十日(日) 第二章
文久元年後半、毛利家江戸屋敷で政治活動の中心になっていたのは、久坂玄瑞・ 桂小五郎らであった。(中略)また萩にあって、長井雅楽とともに航海遠略策を推進していた周布政之助は六月 中旬、萩を発し(中略)七月二十一日、江戸に着いた。

毛利慶親は九月十五日、萩を発して長井とともに江戸に向つた。
その頃、江戸では周布政之助が、にわかに見解を改め、航海遠略策を放擲(ほうてき)して、攘夷論の立場を とるようになっていた。


江戸に着いた毛利慶親は幕府から優遇され、長井も藩内で直目付から中老雇に昇任し、禄高も百五十石から 三百石に加増された。しかし薩摩の島津久光が大兵力を従へて京に入るころから、長井は失脚の坂を転げ始め、 最後は切腹になつた。
和宮降嫁のとき幕府が十年以内に攘夷を決行する密約をしたことが一般に知れわたつたことも大きなきつかけ だといふ。この当時、宮中の意向は相当に権威を持つてゐたことになる。

八月十一日(月) 第三章
長井が中老雇を解任され帰国謹慎の途中、久坂玄瑞らは長井暗殺を企み京都で謹慎になる。しかし二ヶ月後に赦免 された。高杉は久坂の攘夷論に全面的に賛成ではなかつた。高杉は後に手紙で
ますます御周旋論、盛んに相成り、天下の人も悪口致し候様に相成り候。其の悪口は、長州は始めて航海論を唱え、 今日に至ては切迫の攘夷論を唱えしめ、不信の至り、これ定めて、天朝へおもねり、天下を惑乱するの術なりと。 (中略)正否はとにかく長州人、一人くらいは夷人なりと斬り、その恥辱を雪(そそ)がねば相成らずと思い(以下略)


高杉のイギリス公使殺害計画はかうして発生した。これは失敗したが建築中の公使館焼討 ちは成功した。高杉は父親が長井の友人といふこともあり、父親から長井批判は禁じられてゐたが、ここでも攘夷は 長州への恥辱を雪ぐためだつた。高杉が過激なのは吉田松陰が刑死したためだと思つてゐたが、この時点では 高杉は穏健派、久坂が仇討ち過激派である。
その後、高杉は行動を止め剃髪して東行と名乗り毛利家から十年間の暇を得た。この書籍は将軍暗殺など過激な ことを考へてゐたとする。しかしその後、萩に戻り隠遁生活を続ける。
第三章の後半に長州ファイヴといふ言葉が出てくる。最近広まり、きつかけは全日空の機内広報誌に載つたことだ といふ。だとすれば余計そんな言葉を使つてはいけない。事実この本もこれ以降取り上げるべき内容はなくなる。

八月十一日(月)その二 一坂太郎著「長州奇兵隊」晋作の縁者は嫁の貰ひ手がなかつた
一坂太郎著「長州奇兵隊」の「はじめに」は次の文章で始まる。
高杉晋作(一八三九〜六七)の二人の姪が維新直後、長州萩の旧城下で嫁の貰い手がなかったという話を聞いた ことがあります。晋作の縁者というのが、その理由です。(中略)現代の評価からすると、晋作の縁者という肩書き は付加価値になることはあっても、縁談の邪魔になったというのは、ちょっと理解に苦しむ。しかし思い起こしてみる と、日ごろ私が山口県内各地で聞く維新の話は、(中略)時代の変革の担い手となったため、その激震をまともに 食らった「悲劇」の歴史、「犠牲」の歴史がほとんどです。


これは正しい。それなのに奇兵隊内閣だと自称した奇人隊政治屋や、自分の名前に晋作の一字を入れて喜んでゐる 亜流政治屋がゐる。

八月十二日(火) 乱民から志士へ
松陰や門下生は萩では「乱民」と呼ばれ、近隣は災ひが及ぶのを恐れて家族にまで近づかなかつたといふ。高杉晋作でさへ
寅次郎(松陰の通称)事にては一言一行も致すべきようの志はござなく候間、この段は ご安心下さるべく候よう願い上げ奉り候


と父親に手紙を書いたくらいである。ところが長州藩は航海遠略策を捨て攘夷に転換した。このとき久坂と結びついた朝廷 関係者が長井の説は朝廷を誹謗したところがあると非難するなど久坂の工作があつた。久坂が藩主に提出した意見書には 長井の極刑が望まれてゐる。久坂は禁門の変で戦死したため好意的に見られるが松陰の仇討ち或いは国学一本で偏狭 が過ぎる。それは松陰が幕府から大赦になり改葬の時に
浮屠(僧侶)に託し候ては相叶(あいかな)わず候。神葬之式は何卒(なにとぞ)俊輔・真五郎などへ御命じ、和学者に お尋ねを下さるべく候


といふ手紙にも現れる。徳川政権下の寺請け制度で仏教が堕落したのは事実である。しかし月性や月照など僧侶も 維新に参加した。日本だけ西洋から独自性を保つことは不可能で、アジア全体で独自性を保つべきだ。この当時の和学者 がそこまで気付かないのは仕方ないことではあるが。

そして長州藩は松陰の神格化を急速に進める。

八月十三日(水) 堕落する志士
「志士」と一口にいっても、さまざまな種類があります。たとえば吉田松陰などは、みずから の信念を貫き、死地に飛び込んでいつたタイプで、最も純粋な「志士」らしい「志士」であると私は思います。だからこそ、 残された者たちが共鳴し、発奮したのでしょう。
ところが、松陰の教えを受けた者たちの多くは「政治家」に成長していく。彼らはみずから死地に飛び込むことをしなく なり、他人を「志士」に祭り上げ、自分たちの政治イデオロギーのため、最大限に利用します。


一坂氏はその例として周防上関に駐屯する義勇隊が近くに碇泊中の薩摩藩御用商人の船を襲つて沈没させ、船首大谷 仲之進を殺害した。十四日後に大谷の首を大坂の南御堂の門前に晒しその前で切腹した義勇隊二名の事件を挙げる。 現場に残された「斬奸状」によると、外国と密貿易をして天皇の攘夷に逆らつたので成敗したとある。そのことを知つた もう一人も犯人の一人だつたとして上関で切腹した。彼らは上関三士と呼ばれ靖国神社にも合祀された。
ところが事実は異なるといふ。数十日前に薩摩藩が幕府から借用した長崎丸が長州の焼き討ちにあつた。禁門の変に 怒つた激派の仕業だつた。このときは長州が薩摩に謝罪し事なきを得た。ところが数十日後にまた事件が起きた。
そこで先手を打つて目立つように切腹をして世間の同情を長州に集める。しかも密貿易を公表することで薩摩を苦しい 立場に置かせる。犯人は判らないから誰か国(藩)のために死んでくれと言つたところ永井が名乗り出た。ところが一人 では少ないと上層部が言ひ出したため、元盗賊で後に改心して義勇隊に入つた山本に因果を含めて承知させた。
久坂の一派である太田市之進と野村(靖、後に子爵)が、大谷の首級を石灰詰めに して首桶に納め、山本・永井を連れて京都に上る。(中略)「永井は立派に自殺したが、山本はグヅゝして居るから野村 子爵が介錯してやられた相です」

一坂氏は久坂を冷酷な辣腕政治家だと断定し、だから二十代前半の青年が長州藩を尊皇攘夷で一本化し朝廷の奥深く 潜り込み、世論を操ることができたといふ。私も長井失脚や暗殺まで企てる久坂には厳しい目を向けるようになつた。 少し前までは、伊藤、山縣、井上などは俗物、それに対し久坂、木戸はまともと思つてゐたが、今回の特集でまづ木戸が 脱落し次に久坂が脱落した。丁度そのとき読んだのが一坂氏の主張である。

八月十四日(木) 良心派の三人は後半狂つたが、堕落派の四人は私利私欲だつた
NHK出版「歴史への招待 海援隊と奇兵隊」の「人材の宝庫松下村塾」の章は作家の邦光史郎氏の担当である。松陰 は紀州藩家老水野忠央の暗殺指令を江戸に潜伏した弟子松浦松洞に送る。松陰は水野が堀田と伊賀に違勅をやらせ、 井伊大老も水野に使われただけだと思ひ込んだ。水野は紀州藩の家老だから幕府にそれほど発言力がある訳ではない。 松陰は偏つた情報で狂つた。更に言へば密航に失敗し処罰された時点で狂つた。狂ふといふのは松陰が弟子に勧めた 言葉なので引用した。
久坂玄瑞は義兄であり師匠である松陰の処刑で狂つた。高杉はそのような久坂には付いて行けなかつたが、やはり野山 獄に入つたあたりから狂つた。高杉は戦略は考へないが短期の戦術には優れる。功山寺挙兵は勝てると読んだのだらう。 高杉は短期的な勝利の連続で中期的にも勝てると見たのかも知れない。
それに比べて木戸、伊藤、山縣、井上はいつたい何か。井上は維新時の悪行は聞こえてこないが、維新後の鹿鳴館は 醜い。あれでは維新の双方の犠牲者が浮かばれない。

八月十四日(木) 長州のほとんどは敗者になつた
長州藩にとり吉田松陰処刑から萩の乱までは血で血を洗ふ狂気の十七年間だつた。あのとき長井雅楽の路線を採つて ゐれば、或いは椋梨藤太と諸隊が和解する赤根武人の路線を採つてゐれば明治維新の狂気はなかつた。或いは幕府 が大政を奉還ののち坂本龍馬の路線を薩長が採用すればやはり明治維新の狂気はなかつた。
明治維新は権力欲に取り付かれた連中に乗つ取られたといへる。ほとんどの長州人は明治維新で敗者になつた。明治 の元勲は長州にあまり帰らなかつた。目が中央、経団連、ニセ労組シロアリ連合にしか行かない菅、安倍にそつくりである。(完)


(その三)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ