百三十六、元「自民、社会、民社の三党」対「悪魔の思想リベラル」(その一)

平成二十二年
八月二十七日(金)「小沢一郎氏と管直人氏の争い」
民主党の代表選挙は小沢一郎氏と管直人氏の一騎打ちとなった。小沢氏は自民党離党派、社会党、民社党を支持層とし、管直人氏はリベラル派を支持層とする。私は小沢氏を支持する。なぜならリベラルとは悪魔の思想である。日本ではリベラルが誤解されている。これからそれを明らかにしよう。菅氏はそのことに早く気付きリベラルから足を洗ってほしい。そうすれば活躍の機会は今後も幾らでもある。

八月二十八日(土)「法務大臣失格の千葉景子」
リベラルは悪魔の思想である。それは死刑廃止、同姓婚容認に現れている。誰もが死刑の執行役にはなりたくない。しかしそれでは社会の秩序が保たれないから法務省の関係職員は縁の下の力持ちとして社会を支えている。ところが千葉景子法務大臣は死刑執行を見学した。法務大臣は法務省の長である。しかし死刑執行を見学する権利はあるのか。千葉氏はこの世の罪を償うために人類が数千年を掛けて作り上げた神聖な場所を世論操作の手段にした。

八月二十九日(日)「国民感情を無視してはいけない」
犯罪にどのような刑罰を課すかは立法の責任である。立法が何も言っていないのに、法務大臣が世論誘導のために公開するのは越権も甚だしい。

私が死刑廃止論者を嫌いな理由は、被害者の家族や国民感情を無視することだ。無視できる理由は西洋の猿真似にある。そして啓蒙思想とやらを振りかざしエリート意識を持ち庶民を見下すことにある。これがリベラルと称する思想の正体である。

八月三十日(月)「新聞は偏向のかたまり」
今回の刑場公開騒ぎと前回の消費税騒ぎで明らかになったことは、新聞は偏向のかたまりである。
四年前の単産の大会に朝日新聞の編集委員が来て講演をした。総理大臣やその他の政治家に会ったときの裏話が中心で、面白いと言えば面白いが二回聴いたら飽きるだろう。それよりこういう人たちが政治家に会い、政治家も新聞に悪く書かれたくないから擦り寄る。その影響を考えた。
亀井静香氏のことを保守の権化の極悪人みたいな言い方をしていた。しかし不思議に死刑廃止を主張していてそこだけは偉い、と言っていた。これで新聞がどれだけ偏向しているかわかる。
それにしてもこの単産は加盟人数が少なく、大企業労組の支部くらいの規模である。普通の単産は十くらいの大手労組が加盟し、大手労組は同じく十くらいの支部を持つ。その支部と同規模の単産に、編集委員、女性社員、女性記者が二回、横浜国大准教授と朝日新聞はよく次々に送り込んでくる。

八月三十一日(火)その一「世論調査という欺瞞」
鳩山政権が誕生し、官僚記者会見の禁止、事務次官会議の廃止、補助金を企業から家庭に、米軍基地でアメリカに妥協しない姿勢、と次々に新政策を打ち出した。しかし逮捕や捜査が相次いだ。鳩山氏、小沢氏、鳩山氏の選挙区の北海道で二人。そして新聞はさかんに世論調査結果で鳩山政権を攻撃した。
世論とはその必要のある者が声を上げることである。必要のない者の投票を集めてもテレビタレントの人気投票と変わらなくなる。例えば農業用水の管理人は亀井氏という強面の人だったがきちんと職務を果たしてくれた。突然千葉氏という美人(?)に代わったが管理が悪いので末端の農家五軒は水不足になった。五軒が苦情を言った。新聞社が世論調査を行い村の七十軒は美人に投票し、末端の五軒は亀井氏に投票した。これが世論調査の実態である。
小沢氏は無意味で偏向した世論調査は完全に無視して農業用水改革、ではなく政治改革を進めてほしい。

八月三十一日(火)その二「合併後の民主党の原点」
合併前の民主党では政権獲得は絶対に無理だった。リベラル色が強すぎるためである。自由党と合併することにより、国民は安心して民主党に投票できるようになった。リベラルはハト派ではない。自由や民主主義を叫びながら突進するとんでもない思想である。アメリカではこういう連中が戦争を引き起こし、日本ではこういう思想が国民の生活を破壊してきた。
今朝のニュースで菅、鳩山、小沢の三氏会談が報道されていた。合併直後の原点に戻ってほしい。

九月二日(木)「交渉決裂」
鳩山氏の尽力により、トロイカ体制で融和することが一旦は決まった。しかし菅氏が人事で妥協しないために決裂した。トロイカ体制とは三氏が等しく要職に付くことである。ところが要職は今のままで名目だけトロイカ体制にするという。これでは決裂するに決まっている。
菅氏のよくないところは、官僚のいいなりになって政権長期化を狙ったことである。そこまでして権力にしがみつきたいのか。権力にしがみつく者こそ最大の反クリーンである。なぜなら政治資金とは権力獲得やその維持の手段なのだから。菅氏とその取り巻きは民主党でもっともダーティーな勢力と言える。

九月三日(金)「旧三党と平衡感覚」
リベラル派とは平衡感覚の欠如である。先祖伝来の文化を破壊すれば世の中が不安定になる。それにも係わらず更に破壊を進めるからである。一方の旧三党出身者は平衡感覚に優れている。まず社会党の左傾化に反対して離党した民社党は立派である。同じく社会主義協会の支配に反対した社会党右派も正しい。自民党の小渕派支配に反対し離党した羽田派も正しい。

小ホームページではかなり容共発言をしている。これはこれら勢力が絶滅寸前のために平衡を取った。つまり民社、社会、羽田派と根底は同じ思想である。

更にもう一つ理由がある。共産、社民のリベラル化を防ぐためである。将来の展望を描けずに活動を続けるとリベラルに陥る。

九月四日(土)「リベラルは日本には合わない」
小ホームページでリベラルとは、自由主義、個人主義、拝米の混合したものの意味で用いている。(だからかつての護憲リベラルや民主党内のリベラルの会はリベラルとは正反対である。彼らは本来は恒久平和の会とでも名乗るべきだった。)
リベラルはいろいろな意味で使用されるが、おそらく今述べた定義が日本では一番正しいのではないだろうか。まず本来の意味は自由主義である。次に欧州は個人主義だがアメリカはそれに拍車をかけている。だからアメリカの真似でリベラルを志向すると個人主義が加わる。アメリカでは民主党の政策をリベラルと呼ぶが、アメリカは先住民の土地を奪った上に世界で最も石油を浪費し、黒人と移民は収入が低い。従って彼らの理想主義は偽善でタカ派となる。まさに枝野、仙石、前原氏のような主張である。

日本のこれまでの選挙を見るとリベラルは負けている。それは集団主義の否定が日本に合わないためであろう。全国に革新知事を誕生させたころの社会党は都市部では勝っていた。労働者の集団主義である。しかし農村部では自民党こそ集団主義の擁護者と見なされ社会党は負けていた。社会党が総労働者の闘争を放棄するとリベラル化し今では滅亡寸前である。自民党の小泉氏は集団主義を装い勝利した。安倍晋三氏はリベラルの典型だから負けた。菅氏もリベラルで負けた。

九月五日(日)「外務大臣と防衛大臣は責任を取っていない」
鳩山首相が普天間問題で辞職したときに、岡田外務大臣と北沢防衛大臣も辞めて当然だった。民間会社に例えれば大阪支店の不祥事で社長が辞任したのに取締役大阪支店長が居座るようなものだ。
その北沢防衛相が普天間問題について「危険性除去という短期的な課題と米海兵隊が沖縄に過重駐留していることの解決という中長期的な課題がある」「(小沢氏は)短期的な問題と中長期的な問題を混在させている」と述べた。これは大きな間違いである。辺野古の海を埋め立てたら二度と戻らない。短期問題ではなく永久問題である。それに比べたら日米関係がどうなろうとそんなことは短期問題である。関係が悪化しても貿易は今までどおりにやりましょうと話し合う、というか話し合わなくても貿易はうまく行く。そして翌年には相互訪問して関係を回復する。これが外交である。外交とは動的である。
日本は日英同盟を破棄したときから勘違いしている。あのときも「日本は離婚した女に未練を持っている」と外国に皮肉られた。もっとも今でも、日英同盟に未練を持っている者がいる。例えば京都大学教授の中西輝政である。外交は動的だということがわかっていない。イギリスかぶれだからこういう間違いを冒す。帝国主義を賛美するとはとんでもない。

九月六日(月)「西郷隆盛と山県有朋」
菅氏が小沢氏を西郷隆盛にたとえ、「明治維新には西郷さんの力が必要だった」「西南戦争があって本格的な明治政府ができた」「政権交代以降、西郷さんはああいう末路を迎えた。これが大事だ」と語った。小沢氏が西郷なら、菅氏は山県有朋であろう。
世の中には地位は低いが功績のある者と、地位が高いのに功績のない者がいる。山県は後者の典型である。たいした働きをしないのに首相と枢密院議長になった。参謀本部の陸軍省からの独立や陸軍大臣の現役将官制は山県のごり押しである。それでいて日清戦争のときは元老なのに第一軍司令官に割り込み、参謀本部の言うことを聞かず勅命で呼び戻されている。司令官は天皇の直属なので参謀本部を無視してもよいという前例を作った。これが後に張作霖爆死事件、満州事変、日華事変とつながる。
山県が亡くなり国葬が行われた。参列者は陸軍と政府関係者ばかりで国民はほとんどいなかった。東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じた。三週間前には大隈重信の国民葬も行われ、こちらは三十万人が参列し、沿道も多数の国民が並んだ。山県がどれだけ嫌われていたかがわかる。山県の死とともに元老不在による不安定な昭和時代を迎える。責任は昭和ではない。元老として権力を振るった山県にある。

消費税発言と官僚の言いなりで実績がないのに首相に居座る菅氏を見ていると、山県有朋に見えてくる。


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