五百八十七、(その二)竹内好著「近代の超克」

平成二十六甲午
七月七日(月) 1990年以降の偏向
竹内好の本を五冊借りた。このうち丸川哲史著「竹内好 アジアとの出会い」を読み始めたが2010年に 出版された本なので偏向が酷い。といふことで1983年の竹内好著「近代の超克」をさきほど読み始めた。 この本は竹内が雑誌に発表した短編を集め、そのうちの一つを本の題名にしたものである。早速重要な 文言に至つた。
ヨオロッパが本来に自己拡張的であることが(その自己拡張の正体が何であるかという問題を別にして)、 一方では東洋への侵入という運動となって現れたことは、認めてよかろう。(他方で、アメリカという鬼っ子 を生み出した。)
アメリカを鬼っ子と呼ぶことに何の違和感もない。だから私がアメリカ合州国解体論を述べるのも、浅沼 稲次郎が「米帝国主義は日中両国人民の敵である」と述べたり佐々木更三が「米帝国主義は人類の敵 である」と述べるの同様、1988年辺りまではごく普通の間隔だつた。あと私は二人の発言を発展させて 「米帝国主義は人類と全生物の敵である」と書いたこともある。

七月八日(火) 支那と中国
「支那と中国」の章は昭和15年に書かれたことを思へば名作である。その数年前に竹内氏らは「中国 文学研究会」を始めた。当時の日本では支那が普通の呼称だがそのとき中国といふ会名に少しの 疑惑も抱かなかつたといふ。そして
某漢学の老先生は書を寄せて中国を民国に改むべしと勧告された。中国を中華民国の略称とでも 思われたのであろうか。
なるほど中華民国或いは中華人民共和国の略が中国かと思つてゐたがさうではないらしい。尤も日本が 中国と呼んでよいかどうかは疑問である。日本には中国地方があるからだ。中華或いは中華国と呼べば よかつた。今となつては不可能である。
最近中国のことをチャイナと呼ぶ人がゐるがこれはよくない。先日電車の中で若い女二人がオーストラ リアかどこかの海岸の話をしてゐた。そのうちチャイニーズが多いからといふ話になつた。チャイニーズ とは何か。そんな日本語はない。日本はプラザ合意以降、急に金持ちになつた。そして海外旅行者が 激増した。そして日本以外のアジア人を見下す傾向が出てきた。これはよくない。一方で中国にも原因 はある。かつては日本とは異なる政治体制といふことで尊敬の目で見た。しかしその後、資本主義と 共産主義の悪いところを組み合はせた体制になり、そこが日本人の中国を見下す一つの理由になつた。 しかしマスコミの偏向報道が根底にある。偏向報道がなければ日本は自民党長期政権だが中国も共産党 長期政権で同類だ、くらいに落ち着いたはずだ。

七月十日(木) 近代の超克
昭和十六年十二月八日について
そのころ雑誌『文芸』の編集部にいた高杉一郎は、この精神の転回点についてつぎのように回想している。 「・・・・日本が中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、 抵抗意識をもちつづけたのであった。」
「ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日本が昭和十六年の 暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻痺にでも かかったように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。」


ここが大切なところである。日華事変(少し前までは中学高校の教科書は日華事変と呼んでゐた。今は 日中戦争と呼ぶ猿真似学者とマスコミが多いが、双方とも宣戦布告しない。この異常な状態を検証する には日中戦争と呼んでは駄目である)といふ奇妙な現象の責任者への非難が太平洋戦争に拡大する ことで誤魔化されてしまふ。例へば
「支那事変」とよばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、「文学界」同人をふくめて、 当時の知識人の間のほぼ通年であった。
といふ有益な意見が隠されてしまふ。日華事変の原因は二十一ヶ条である。

七月十一日(金) 二十一ヶ条
日本が亡国に至つたのは決して真珠湾攻撃が原因ではない。ミッドウェイの敗戦が原因でもない。 二十一ヶ条である。「方法としてのアジア」の章には
五・四運動というのは、日本が第一次大戦中に非常に苛酷な条約−−日本が中国を独占的な植民地化 すると云う苛酷な条約を強制して、それを当時の軍閥政府に、武力を背景にして承認を迫ったわけです。 最後通牒を突きつけまして、戦争に訴えるとおどかした。これが有名な二十一ヶ条です。
二十一ヶ条の発案者、決定者など日本側の亡国責任は今からでも遅くはない。厳しく追求すべきだ。 日露戦争ののち孫文はヨーロッパから帰国する。船がスエズに寄港し荷役のアラビア人が
日本が日露戦争に勝った。白人だけが優秀であると自分たちは諦めていた。色のある人間は能力が ないのだというふうな諦めをもっていたところが、日本人が白人を戦争で破ったということを聞いて非常に 嬉しい、解放の希望がもてた、ということを言ったそうです。孫文自身が語っております。
ところが
大正以後はまずくなった。中国と日本の関係で見ますと、第一次大戦が転機になる。あれ以前は大体 うまくいっているのですが、ちょうどあすこで、中国におけるナショナリズムの勃興と、日本が三大国に なって、中国に対する侵略を強化するのとがクロスする。その典型が二十一カ条条約と、それへの抵抗 運動である五・四です。

七月十二日(土) 1961年と2014年の相違
日本が東洋であるというのは、私はそう思うけれども、それに対して有力な 反対意見が現在あるのです。その一例を挙げますと、梅棹忠夫氏です。(中略)アメリカを除いた旧社会 を二つに分ける。周辺と中央。第一地域、第二地域と名前をつける。日本と、ヨーロッパの端っこのイギ リスやフランス、これは共通性があるという。中央の大陸はこれと全く異質だという。
ここまで私は賛成である。本質ではなく共通性があるといふ意味で100%賛成である。竹内氏も「当って いるところがある」といふものの、は日本語と中国語は語順が違ふ、中国人は椅子に腰掛ける、ノコギリ やカンナや庖丁で日本人は引くが中国人は押すと本質とは無関係のことを羅列する。これは間違つて ゐる。
まづ内陸部と海岸部で異なる理由は気候と食べ物である。そこから習慣の違ひが発生する。だから内陸 部どうし、海岸部どうしは共通性である。一方でアジア、内陸部、ヨーロッパにおける共通は長年に亘る 交流の結果だからこれは本質である。それなのに竹内氏はまづ日本語と中国語の語順を挙げた。タイ やベトナムは語順が中国語式だが、ミャンマーは日本語式で、しかしタイ、ベトナム、ミャンマーはいづれも 海岸を有する。つまり語順と海に近いか遠いかは関係がない。だいたい中国は広いから四川のような 内陸部と上海、広東のような沿岸部がある。もし竹内氏の説が正しいなら上海、広東の言葉と四川の 言葉は語順が逆にならなくてはいけない。
だから竹内氏も私は、梅棹説を半分は支持します。といふが 異なる点は語順、椅子、引くか押すかの三つを挙げ、共通点は皮膚の色と顔だから、読者は竹内氏 は90%賛成なんだと思つてしまふ。しかしこの当時は日本に西洋文化はそれほど入つてはゐなかつた。 西洋技術は入つてゐた。しかし西洋文化は入つてはゐなかつた。音楽や翻訳された西洋文学は西洋 文化ではない。西洋技術である。だから竹内氏も半分賛成と言へたのだ。プラザ合意以降の、或いは 米ソ冷戦終結以後の西洋文明が大量に入つた現代に竹内氏がもし遭遇したら、アジアの本質に注目 したことだらう。

竹内氏の欠点は本質を捉へないことにある。その原因は外国語(竹内氏は中国語)を勉強し過ぎた ことだ。私が外国語の勉強はほどほどにしたほうがよいといふのはここにある。勿論外国語習得が 得意だといふ人は通訳になつたり外務省の専門官になればよい。しかし一般の人は得意分野が それぞれ異なる。小学生に英語だの英語公用語だの大学で英語の授業をしろだのと駄論を吐く 連中に強く反対する理由はここにある。

七月十三日(日) 岡倉天心
竹内好は後世の評価が定まらないと最近の書物はいふ。その理由は岡倉天心の章の冒頭に現れて ゐる。
天心は、あつかいにくい思想家であり、また、ある意味で危険な思想家でもある。あつかいにくいのは、 彼の思想が定型化をこばむものを内包しているからであり、危険なのは、不断に放射能をばらまく性質 をもっているからである。

放射能とは過去の戦争の時期に「アジアは一つ」という天心の言葉が利用されたことだが、それは天心 の責任ではない。そもそも先の戦争は「アジアは一つ」という天心の言葉とは逆に日華事変が原因であり 天心を批判する理由は何もない。終戦で連合国は正しく日本は間違つてゐるといふ偏つた思想に竹内も 相当騙されてしまつた。なを日本が間違つてゐないと言つてゐる訳ではない。先の戦争は日華事変と いふ侵略部分と、太平洋戦争といふ帝国主義国どうしの醜い争ひの二つからなる。更に日華事変は日本 の傲慢から発生した部分と蒋介石がイギリスを巻き込んだ部分から成る。つまりは日華事変も中国を 日本だけの権益地にされたくない西洋列強との醜い争ひであつた。そのことに竹内氏が気付かぬのは 不思議だが敗戦といふ異常環境の中での見解といふことで大目に見るべきだらう。

岡倉天心の東京美術学校は日本画、伊沢修二の東京音楽学校は西洋音楽。そして天心は
明治政府の体制が整備されてくれば、いつかは教育界から追われる運命 にあった。いわゆる美術学校騒動は当時の新聞をにぎわせた事件であって、陰謀説や醜聞が乱れ飛んだ が、根本の事情は(中略)体制の安定によって終止符を打たれたというのが本筋である。
しかし私が「岡倉天心」の章で注目したのは伊沢により
邦楽は、五線譜に書きかえて、普遍的旋律に近づけることが近代化への道とされる。
の部分である。アジアの音階は果たして西洋音楽のファとシを抜いただけだらうか。音階そのものが 違つてゐるのではないか。その理由はファとシを抜いただけだと西洋音楽とは別の意味で隣の音との 差が不均衡になるからである。音楽関係の書籍を調べても載つてゐない。そればかりか 律音階、呂音階、民謡音階、沖縄音階を五線譜上に乗せる記述さへあるからである。だから 私はアジアの音階は隣の音と半分の高さから自音を超えて反対側の音との半分まで音域が広いと いふ結論に達したのだつた。しかしだからといつて音の高さの中心点はありそれは西洋音階とは異なる はずだ。そのことがこの普遍的旋律といふ言葉で確かめられた。戦前戦中の人たちは西洋音階では あつてもアジア的な音階だから普遍的旋律と差のあることに気付いてゐた。しかし戦後生まれは五線譜 の上でしか論じられない。それが書籍で見つからない原因であつた。

七月十三日(日)その二 わが石橋発見
『石橋湛山全集』を読むまで、私は、中国のナショナリズムを同時代に理解 できる日本人は一人もいなかったのではないか、と疑っていた。中国のナショナリズムを理解できる資格 とは、自身が開かれたナショナリストであることだが、見わたしたところ、左右をふくめて、そんな人はいる はずがない、というのが私の独断だったやはりコミンテルン支配下の日本左翼から若いころに植えつけら れた偏見を自分が脱し切れていなかったことにいま思い当たる。
たとえば、いわゆる二十一条要求である。

石橋湛山は「所謂対支二十一個条要求の歴史と将来」の最後で二十一ヶ条要求を直ちに撤回し、旅順 大連と南満安奉鉄道を返還すべきことを謳つてゐる。
この文の書かれたのは一九二三年だが、五十年後のいまも古びてはいない。
と竹内氏はいふ。そればかりではない。九十一年経つた今でも古びてゐない。このように言ふとお前は 石原莞爾を支持しておきながらどう整合を取るのかと言はれさうだが、石原莞爾は袁世凱が二十一ヶ条 要求を受け入れたことを批判した。満州事変は張作霖爆殺事件で張学良が蒋介石に寝返つたことが 原因であり、張作霖爆殺事件は馬賊出身の張作霖の命を助け軍閥の長にまで引き上げた日本の言ふ 事を聞かずに勝手に蒋介石軍と戦争を始め負けて逃げ帰たことが原因であり、日本と張学良のどちら が正しいといふべきものではない。日本としては張学良の排除と引き換へに旅順大連と南満安奉鉄道を 返還すべきだが外務省にそれだけの力がなく日本政府に軍部を抑へる力がなく、日本のマスコミは戦争 を煽るからやはり日本が悪い。しかしそれは政府の機構と政治家の力量とマスコミの問題であり、満州 事変の評価ではない。竹内氏は
日本のリベラル、またはリベラル左派に対する私の偏見は、コミンテルン日本支部に由来するだけでなし に、総じてリベラルというものが西欧派によって独占されている日本の現状にも由来するように思う。自由 主義者は非土着的で、バタ臭い。
そのため石橋湛山は自由主義者にしてアジア主義者だから竹内氏が長年さがし求めた類型だといふ。


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