五百七十三、萱野稔人氏著「ナショナリズムは悪なのか」一割賛成、三割要補足、六割反対(その二)

六月五日(木)良質な詩人と悪質なやじ馬ども
まずは宮古島出身の詩人・思想家である川満信一の「琉球共和社会憲法C私(試)案」をとりあげよう。/これは一九八一年に『新沖縄文学』(四八号)に発表され、その後、何人もの国家否定論者によって参照されることになった文章である。

萱野氏は川満氏の文章の前文と第一条、第二条を引用し、この三つを読んだ限りでは川満氏は極めて良質な詩人である。ところが或る事に気付いた。ニセ新聞東京パンフレットといふ菅直人の突然の消費税増税言動以降偏向を繰り返しその後はマッカーサに押し付けられたゴミ憲法をありがたがる奇妙な紙パルプ無駄遣ひ会社がある。載つた人たちは本当は良心的な人なのだらうがニセ新聞に載つた途端、醜悪になつてしまふ。川満氏も詩人としての発言も100%賛成だが、国家否定論者によって参照されることで醜悪になつてしまふ。

六月六日(金)西川長夫批判
詩人が、空を飛んだり海深く潜つたといふ詩を書いたとしよう。実現は不可能だが空想として書く。読者もそれが判つた上で鑑賞する。だから詩は美しい。ところが国家否定論者は詩としての良質な文章に理屈をこね回し醜悪にしてしまつた。ここでこね回すとは国家否定論者のことであり、萱野氏ではない。萱野氏は
国家を実際に廃棄できるかどうかを考えることは、そうした歴史的経験に向き合うこととは別の事柄である。人文思想界の人間はすぐに「犠牲者たちの歴史的経験に向き合え」ということを言いたがるが、それによって思考が停止してしまうのなら意味がない。

ここまで同感である。萱野氏は引き続き
そうした思考停止をポストモダン的な概念によって粉飾した典型例の一つが、西川長夫の国民国家批判である。西川は『<新>植民地主義論』のなかで次のように言っている。
「独立」の願望を秘めた「クレオール性」の主張は(中略)もはや、ルーツ型のアイデンティティをもつ中央集権的なもう一つの国民国家の形成ではありえないからである。(中略)その独立はもはや人種や民族や国家の独立ではありえない。

世界の産業革命以降を論じると複雑になるので、(1)第一次世界大戦以降を論じるとイギリス帝国主義及びフランス帝国主義、(2)第二次世界大戦以降はアメリカとソ連(3)ソ連崩壊以降はアメリカと西欧の連合政権。この流れの中で民族や国家の独立ではあり得ないといふのなら、西川の主張することは欧米への統合に他ならない。統合された非欧米地域は退廃(上野)、自分に都合のよい部分だけを真似するシロアり(経団連、ニセ労組シロアリ連合、シロアリ民主党)、自由と民主主義を叫び現状既得権を維持しようとする寄生虫(大手新聞、官僚、リベラルを叫ぶ国会議員)で失業者や非正規雇用は見捨てられ出生率は低く大変なことになる。

六月八日(日)上野千鶴子批判
川満の私(試)案から国民国家を超える思想を導きだしている、もう一つのテクストをとりあげよう。上野千鶴子『生き延びるための思想』である。上野はこの本のなかで次のように述べている。
沖縄の反復帰論の潮流は、おどろくべきポスト国民国家の思想を生んだ。・・・・・「琉球共和社会憲法C私(試)案」はその「第一一条 共和社会人民の資格」を次のように規定する。/「琉球共和社会の人民は・・・・・この憲法の基本理念に賛同し、遵守する意志のある者は人種、民族、性別、国籍のいかんを問わず、その所在地において資格を認められる。」/これはたんなる夢想だろうか?仮にこのような統治共同体の主張が、国家主権とならんで認められるならば、個人は帰属を移転することで、兵役を避けることもできる。・・・・・/・・・・・私の生命と財産は、国家に属さない。

これに対して萱野氏は琉球共和社会憲法に賛同しない沖縄の人間のことを無視したことを批判する。そしてそれに反対する人たちを抑へ込むために国家を形成しなくてはならないことを批判する。そしてこれはパレスチナにおけるイスラエル国家の建設を想起させるとする。ここまで萱野氏に賛成である。
私の反対意見はそれ以外に、生命はともかく財産が国家に属さないとすると、それはグローバリズムであり新自由主義である。生命と財産が国家はともかく社会には属してもらはないと困る。しかし四月二十七日に書いたが、上野の次の発言からすると、上野は社会破壊論者である。社会に所属しない生命と財産が勝手なことをすると多くの人が迷惑をする。
・男女共同参画基本法が通った。しかも全会一致で。私はその時こう思った。
・オイオイこの法がどんなものか知ってて通したのかよー。
・通してしまえば、あとはこっちのものというわけだ。
その後、インターネットでは性処理熟女発言が上位になつた。これは下品過ぎるので省略し、その次に問題のある発言は高速道路の制限速度を超えて警察に捕まつたといふツイッターに上野が反応し
・おやまあ、ご愁傷さま。中央高速は制限80キロ。平均120で走っています。ドイツで無制限のドライブを味わったのでつい。最近は覆面パトを見分けるのがうまくなりました。


六月十六日(月)ネグリ=ハート
「マルチチュード」はイタリア人のアントニオ・ネグリとアメリカのマイケル・ハートによつて 書かれた。「マルチチュード」とは
国籍や人種、宗教や性などの点でさまざまな違いをもつ多様な人間たちによって構成 された群集、といった意味をもつ。ネグリ=ハートによれば、現代のグローバル化した世界に おいて新しい民主主義を担うのは-同一性にもとづくネーションではなく-多様性にもとづく このマルチチュードでなければならない。

この時点でマルチチュードとは西洋に同化された空間だと気づかなくてはいけない。 しかし萱野氏は気付かなかつた。この時点で萱野氏のこれ以降のネグリ=ハートの主張は無意味 であり、事実読んでみると無意味なのだが、一つ萱野氏の問題点を指摘して置かう。 それは民主主義である。封建制のときに民主主義を主張するのは尊い。しかし自由主義の 制度のときに民主主義を主張することはたかが半分の勢力で残り半分を屈服させやうと する邪悪な思考である。戦国時代と変らない。戦国時代だつて兵力で勝敗はほぼ決まつた。 桶狭間の戦ひなど巧みな用兵による勝利はあるが、今の世も例外はある。偏向マスコミ のせいで世論がねじ曲げられ勝利または敗北することが多い。
ここで民主主義を叫ぶ人間から出るであらう反論に予め答へておきたい。戦国時代は多数の 死傷者が出るが選挙では出ない。しかし民主主義を叫ぶ人間はさういふ文脈で民主主義を 賞賛してこなかつた。西洋猿真似でとにかく民主主義それ自体がありがたいといふ奇妙な 発想である。だからその批判として半分の意見を切り捨てることで数の論理は戦国時代と 変らないといふのが私の主張である。

六月十七日(火) 産業化とナショナリズムの成立
萱野氏はナショナリズムの成立についてゲルナーを引用する。
一般に信じられ、学問的根拠があるとさえ考えられている 見解とは反対に、ナショナリズムは人間の心の中に根深い起源を持っているわけでは ない。・・・・ある特殊な現象を説明するために、一般的な基層を援用してはならない。 この基層は多くの表層上の可能性を生じさせる。人間集団を大きな、集権的に教育され、 文化的に同質な単位に組織化するナショナリズムというものは、これらの可能性の 一つに過ぎず(以下略)
この引用文のなかでゲルナーが「人間集団を大きな、集権的に教育され、文化的に同質 な単位に組織化するナショナリズム」と言っていることに注目しよう。ナショナリズムは、 人間集団が集権的に教育され、文化的に同質な単位に組織化されることで成立した。

私は萱野氏の主張には反対である。国同士の国境が重要視され、貿易も盛んになつた。 そこでナショナリズムが出てきた。萱野氏はこののち 郷土愛や同胞意識といった、人間の心のなかの「一般的な基層」によってはけっして説明 のつかないものだといふ。しかしナショナリズムはまさに「一般的な基層」から 出たものである。それは過去続いてきた生活の安定を今後も維持しようとする意識である。 だからここ二十五年間のプラザ合意以降の資源浪費社会にあつては過去を継続する 必要はないといったんは思ふからナショナリズムが薄れ、しかしそれが我々の生活を安定 させないことに気付くと再びナショナリズムに戻る。

六月二十日(金) 農耕社会
萱野氏はゲルナーの説に従い近代のものだけをナショナリズムと呼ぶから、そもそも 私とは考へがまつたく異なる。しかし
なぜ社会が産業化されないとナショナリズムは成立しなかったのだろうか。/ゲルナー はそれを「農耕社会」という概念で説明している。
はこれだけだと不十分である。その「農耕社会」についてゲルナーは諸階級の不平等と支配層の 隔たりを控えめに見せるより拡張しようとする社会だといふ。ここで古代、中世それぞれ があるべき社会の堕落したものだと気付かなくてはいけない。古代や中世にそれぞれ 権力争ひがあつた。権力争ひがあるといふことは不均衡があるからそこを狙ふ者がゐる ためであり、これは堕落である。
現代も正当な政権交代ではなく醜い野合(例、シロアリ民主党)や権力争ひ(例、菅・野田 と小沢の党内抗争)があるが、これも民主主義の堕落があるからだ。さういふ観点で見ない と昔は悪くて今は良いといふ表層の分析で終つてしまふ。(完)


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