四百四十七、(1)従兄弟の奥さんの葬儀、(2)旧逓信省の話
平成25年
七月十日(水)「柴田恭平」
昨日は従兄弟の奥さんの葬儀に参列した。従兄弟の中では一番若く、気のいい性格なのに惜しいことである。
京浜急行の駅を降りると丁度葬儀社の小型バスが来た。別の従兄弟の秋ちやん一家といつしよになつた。秋ちやんは昔、柴田恭平の劇団に所属しテレビに出演したときは一族郎党知人友人飼い犬飼い猫に至るまで皆でテレビを観たものだつた。インターネツトで調べると「赤い嵐」といふ昭和五十四年十一月三十日から昭和五十五年三月二十八日までTBSで放送された。新米の巡査大野真が上野不忍池で血まみれの娘を発見した。娘は記憶喪失で大野巡査の両親の豆腐屋に住み込ませた。刑事山根が長野で起きた殺人事件の犯人ではないかと娘の周辺に現れる。巡査は娘を連れ真犯人を捜す旅に出た。
私は毎週見たが、最終回の前の週に娘が犯人かだうか友人たちと話したのを今でも憶へてゐる。最終回は用事があり観なかつた。だから結末は今でも知らない。
七月十一日(木)「大滝秀治」
二人の叔母はかつて電電公社と国際電電に勤めた。いはば電電一族である。大滝秀治が亡くなつたときの新聞記事に、電話局に勤務したとあるから、昨年の別の従兄弟の一周忌のときに国際電電の叔母に尋ねたが知らない様子だつた。大滝秀治の実家は藍染大通りを左に入つたところだが、芋甚の角を右に入つたところではないかといふくらいだから昔のことを忘れたのかも知れない。
もう一人の叔母は記憶は確かだから今回尋ねようと思つた。しかし二人とも来れなかつた。一人は車に乗ることを医師に禁止されたさうだ。昭和がだんだん遠くなることを実感した。
七月十二日(金)「世界を航海」
残された子どもの一人は昨年船の会社に就職した。花輪に「何々丸船長 船員一同」と書かれたものと別の船で「何々丸船長 甲板部一同」と書かれた二つがあつた。船が往復した後に船員は休暇を取るが船はすぐ航海に出る。だから二つの船に乗務する。一ヶ月に一回は外国航路に乗務してパナマ運河も航行したさうだ。羨ましい限りである。
この息子さんは気が利いて私も関心した。船舶会社が採用したのも当然である。一昨年の船の科学館の閉館のときに、元船長で船会社の取締役、船長会副会長といふ人とバスでいつしよになつた。この方は商船大卒だが高校の船舶科卒もどんどん船長に採用してほしい。明治時代の日本がまともだつたのは皆が叩き上げだつたからだ。
七月十三日(土)「漁船乗務員」
この息子さんの友人で漁船乗組員も参列した。私が前に勤めた会社に北海道で漁船の乗組員だつた人がゐた。食事の早さが普通の三倍である。漁船の乗組員は食べるのが早いのださうだ。その話をしたがこの友人の船はさういふことはないらしい。調理長が乗務するから大きな船に違ひない。他に船長と機関長がゐる。
プラザ合意以降の日本は現業を軽視する異常な世の中だつた。しかしこれからは少しづつ円安にならう。円安だと物価が上がり生活が大変になる。しかし我々はプラザ合意以前は皆が仕事に満足感を持ち海外旅行なんてできなくても生活は充実してゐた。
円安になれば漁業は重用な産業に復帰する。円安になつたとき大企業に輸出超過をさせてはいけない。それを防ぐには時間外労働の禁止、下請けと非正規雇用の禁止がよい。
七月十四日(日)「横須賀」
従兄弟の家は横須賀にある。横須賀は横浜と比べて気温が低い。ここ一週間ほどの真夏日で東京が三十五度のときに横浜は三十三度、横須賀は三十度だつた。私は今まで横浜は東京と比べて住みやすい土地だと思つてゐた。しかし横須賀は更に住みやすい。もつとも風の向きにもよる。今日のやうに暑さが一段落すると東京、横浜が三十三度、横須賀が三十二度である。
横須賀といへばかつては軍港、今は大部分が米軍基地、残りが海上自衛隊である。先日明治時代の日本がまともだつたのは皆が叩き上げだつたからだと書いたが、戦前の海軍は兵学校の卒業順位が最後まで人事に影響した。そんなことをすれば戦争に負けるに決まつてゐる。先の戦争は陸軍が悪者だが海軍の官僚主義も批判されてよい。敗戦責任は海軍のほうが重い。
陸上自衛隊は戦前の陸軍とは断絶したが、海上自衛隊は海軍を引き継ぐ。だとすれば心配である。幹部候補生を採用するのではなく、すべてを隊員としその中から曹、尉、佐、将に任命すべきだ。それとは別に旧幹部候補生の代はりに防衛省職員として採用し一部は自衛隊と人事異動し大部分は司令部付として勤務すべきだ。知識層を幹部にするのではなくスタツフにする。これが一番日本に合つてゐるのではないのか。欧米の猿真似は止めるべきだ。
七月十四日(日)その二「『あまちゃん』総集編」
今日はNHK朝ドラマ「あまちゃん」の前半総集編を観た。なるほど視聴率が高いのもうなづける。女子高生天野アキが主人公で母春子とともに岩手県北三陸に帰省する。アキは祖母夏の後継者として海女になり地元の観光名物として有名になる。東京の芸能プロにスカウトされる。
それにしても当ホームページと共通の話題が多い。従兄弟の秋ちやんは男だが名前が似ているし夏、春も兄姉にゐる。「赤い嵐」で秋ちやんの登場はわずかだつたがアキも出演ドラマがほとんどカツトされる。「赤い嵐」は上野が舞台で谷中でもロケをしたが、「あまちゃん」も後半は上野が舞台になり、芸能プロの寮は谷中といふ設定で、ここは藍染大通りを過ぎて谷中の坂を上がつた右側でロケが行はれた。あの坂(あかぢ坂)でもアキが自転車に乗る場面を録画したさうだ。アキの祖父は漁船の船長だが漁船の話もある。
天皇様が十日前に岩手県南三陸を旅行されたが、往路は新花巻で新幹線を降りられ、ここは当ホームページでも度々取り上げた作家Xの出身地、帰路は一ノ関からご乗車になつたがここは私の義父の出身地である。
アキともう一人の若い海女が三陸鉄道の駅や車内販売やお座敷列車のイベントに出演し、多数の撮り鉄(鉄道写真マニア)が集まるが、当ホームページも撮り鉄は何回か採り上げた。二人の海女を写しに来るのは撮り鉄ではなく撮り海女だといふ意見もあらう。しかし彼らの行動はだう見ても撮り鉄である。特徴は群れる、よい場所を確保しようと走る、カメラやレンズは高級なものを持つてゐる、の三つである。
七月十五日(月)「逓信総合博物館」
先月郵便局で逓信総合博物館の招待券をもらい、本日行つてきた。八月末で閉館といふ貼り紙があつた。逓信総合博物館は昭和三九年に郵政省、電電公社、NHK、国際電電により設置された。起源は明治三五年に逓信省が設置した郵便博物館でその後逓信博物館になつた。逓信省は後に郵政省、電電公社に分割されたから、明治三十五年に設置されたといつてもよい。
七月十六日(火)「クロスバー交換機、テレツクス、農村電話、郵袋仕分け機」
逓信総合博物館は小学生か中学生のとき父に連れられて一回行つたのと、郵便局で招待券をもらひ一人で三回くらい訪問した。電電公社の展示場には大きなクロスバー交換機がガラス張りの部屋にあり、それで展示場内のほとんどの電話機を扱つてゐた。だから或る展示コーナーに電話機が4台あり互いに掛けられるだけではなく、他の展示コーナーにも掛けることができた。例外はステツプバイステツプ方式の展示で、ここでは4台の電話から他に掛けると、目の前の交換機が動作した。今回もその電話機はあつた。しかし稼動はしてゐなかつた。代りに目の前のスクリーンに説明が映し出された。
かつては共同電話、農村電話、テレツクスのコーナーがあつたが今では使はれなくなつた。テレツクスはタイプライターから入力すると紙テープが出てきて記念にもらへた。ケーブルの地下トンネルは7mくらいあつて圧倒されたが1mくらいのものに変はつた。
郵政のコーナーでは小荷物の自働仕分け器の実際に動く展示がお気に入りだつたが、これが無くなつてゐた。
七月十八日(木)「国際電電とNHKの撤退」
高校以降は長いこと逓信総合博物館には行かなかつたが、二十年くらい前と数年前に一回づつ行つた。二十年くらい前は生まれたばかりの子供を妻が家で育児するので、休日は邪魔にならないやう出掛けた。記憶にある理由は、逓信総合博物館の向かひにそれとは別のNTTの博物館が出来たためである。そこも入場料を払つて見学した。逓信総合もその向かひもどんな展示だつたかまつたく記憶にない。逓信総合の郵政省コーナーに郵袋の展示がまだあつた記憶がかすかにある。
二回目は数年前で、久し振りに郵便局で郵便車展の招待券をもらひ行つた。今と展示はほとんど変らないが、二階へのエスカレータの上がつたところにNHKの昔のニユースをボタンで選択して聴く機械があつた。NHKが逓信総合博物館を撤退するのは東北大震災の直後だから、三年か四年前であらう。
国際電電はその前に撤退した。第二電電と合併しKDDIになりNTTの競合会社だから止むを得ない。しかしNHKの撤退は合点が行かない。電波の監督が郵政省を離れたからであらう。
七月十九日(金)「逓信ビル」
逓信総合博物館について中学生のときから不思議なことがある。博物館は三階までなのに外に出ると八階建てである。しかも四階以上は窓がある。調べるとこの建物は逓信ビルといつてNTTグループ持ち株会社の所在地である。斜め後には東京国際郵便局がありかつては京浜東北線の窓から見えた。インターネツトで調べるとNTTコミュニケーションズ大手町ビル(北側・NTT大手町ビル)、旧東京市外電話局(南側・現アーバンネット大手町ビル)、旧東京国際郵便局(北東・閉鎖中)、旧東京郵政局ビル(東側・取り壊し済み)である。
今回は資料室に寄るため四階に初めて行つた。ロの字型の廊下の左右に事務室が並ぶ。向う側のエレベータホールに案内板があり、NTTの間接部門が少し入居する。七階までで八階の表示はなかつた。やつと建物の不思議が解消した。
数年前に来たときは一階はレストランが営業し休憩コーナーも昼食を取る家族づれで満員だつた。今回はレストランが閉店し一階の休憩コーナーは数家族しかゐなかつた。地下は誰もゐなかつた。閉館が近付いたことを実感した。(完)
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