三百二十七、電話は世につれ世は電話につれ(その二、加入電信、キヤプテンシステム、有線放送、農村電話)

平成24年
十二月二十二日(土)「キャプテンシステム」
プツシユホン指定席予約はプツシユホンのほかにキャプテンシステムでも利用ができた。私はキヤプテンシステムが何のことか知らなかつた。調べてみると昭和五十九年に開始し十年前に廃止になつた。今ではインターネツトと比べて、電話代と接続料が割高だし通信速度も遅い。廃止は時代の趨勢であつた。キャプテンシステムの出現した当時は新しいサービスを拡大といふことで電電公社が国鉄またはJRに呼びかけてお付き合ひで実行したのだらう。これはプツシユホンも同じである。プツシユホンが出現したときダイヤル回線と比べて利点はダイヤルより押すほうが速いのと計算機能くらいだつた。計算機能は今の電卓並みだつたが新しい試みを始めたのは電電公社のような官僚組織としては偉い。しかしそれだけではプツシユホンの特長不足だから3公社5現業のうち公社どうしの国鉄に呼びかけて#9500が実現したのだらう。

十二月二十三日(日)「加入電信(テレツクス)」
昔は加入電信といふものもあつた。テレツクスとも呼ばれた。私は仕事で使つたことがないが、逓信総合博物館で中学生くらいのときに使つたことがある。テレツクスは電動タイプライターに電信線とダイヤルを付けたものでデイスプレイは付いてなかつた。受信したデータは印刷され、送信はキーボードから打つか予め紙テープに打つたものを読み取り機に掛けた。加入電信はファクシミリの出現で激減し十年前に廃止になつた。
ファクシミリのない時代は大変だつた。加入電信は一部の企業しか加入しないし、画像は送れなかつた。漢字も使用できなかつた。私は書類は静岡まで届けてくれと言はれて新幹線で届けに行つたことがある。今だつたらフアクシミリで送信し、原本は後ほど郵送すれば済む。そのフアクシミリも電子メールの出現で使用が激減した。

十二月二十三日(日)「有線放送と農業電話」
昔は電話線を各家庭に引くのは大変だつた。一本一本引かなくてはいけないからだ。例へば或る集落に二十世帯加入者が居れば二十組の電線を他とは絶縁した状態で街中の電話局から引かなくてはいけない。だから協同電話といふものが昭和40年代にはまだあつた。普通式と秘話式があり後者は前者より基本料が高かつたが普通の電話よりは安かつた。農村では農協が有線放送といふものを引いた。普通のダイヤル式電話機のダイヤルがなくそこにスピーカーの音が出る穴(直径1cmくらいのものが15個くらい)がある。1日に2回くらい放送があり、村役場からのお知らせ、農事だよりなどを5分くらい放送した。それ以外に「ただいまからxxxxxの時間です」といふ10秒くらいの放送が2時間ごとくらいにあり、その30分くらい後に「ただいまから通話の時間です」といふ放送があつた。xxxxxの部分は小学生だつたので覚へてゐないが「休憩」だとかだつたと思ふ。
私の母方の祖父母の家は元々は電話はなかつたが昭和40年代前半に有線放送に加入した。最初は50回線のxx番、後に47回線のxx番に変はつた。加入者どうしは受話器を取り上げ交換手に回線と番号を言へば無料(だと思ふ)で掛けられる。東京から掛けるときは最初は0263-3-XXXX、後に0263xxを掛けると交換手が出て回線と番号を言へばつないでくれた。東京から掛けるときにうつかり休憩の時間や放送中に掛けると100円(今の価値だと100円)くらい徴収された。放送中に掛けると回線内の全家庭の放送が途切れるから当然ではあるが、東京に住んでゐれば何時何分に電話を掛けてよいか判らない。
これが有線放送だが、農村地帯で激増することに慌てた電電公社が農村電話といふものを始めた。共同電話を拡大したものである。似たものにビル電話といふものもあつた。こちらは付加機能があるとは言へ普通の電話より基本料金が高かつた。交換手を雇ふよりは安かつたが構内交換機の出現とともに廃れた。当時は内線が20回線くらいまでの構内交換システムはあつた。

十二月二十六日(水)「公衆電話の衰退」
有線放送は昭和四十四年を頂点に一般加入電話の普及とともに衰退するようになつた。その後、電電公社以外にも参入が認められるようになり、我が家では新規業者を応援するためにまづ日本テレコムに変へ、更にその五年くらい後には東京電話に変へた。日本テレコムについてはキヤツシユカードで使へる公衆電話を始めて、私は大いに応援した。NTTのテレホンカードに対抗したもので成田空港の第二ターミナル(だと思ふ)には日本テレコムの公衆電話があつた。たまたま第一ターミナルから出発だつたときも時間に余裕があるので無料連絡バスで第二に行き今から出国手続きだから、と家に電話を掛けてまた無料バスで第一に戻つたことも三回くらいあつた。私は時間に十分余裕を持たせるからかういふことができる。
寝台特急「あけぼの」で函館駅に着いたら改札の外にこの公衆電話があつたのでさつそく自宅に電話を掛け「今、函館に着いた」と電話した。それくらい応援したのに携帯電話の普及とともに日本テレコムの公衆電話はあつといふ間に消滅した。
東京電力は殿様商売でよくない。特に十五年ほど前だらうか従業員に資格取得を推奨し、当時の風潮でTOEIC何点だとか英検準何級だとかに留まるだらうと思つた。しかし東京電話だけは偉い。さう思つたから応援した。しかしIP電話の普及とともに会社ごと売却されてしまつた。

十二月二十七日(木)「素朴な時代」
昭和四五年あたりまでは社会全体がまだ素朴だつた。電話の故障で113番にダイヤルしたら男の声の録音で「ピーと鳴つたらお話ください、ピー」と自分でピーと言つてゐた。今だつたら電話会社がこんないいかげんな録音テープでよいのかと苦情がでるところだが、当時の社会には素朴さが残つてゐた。
共同電話と有線放送電話にも素朴さがあつた。昔は一本の電話に1組の電話線が必要だつた。後に多重化ができて1組の電話線で多数の通話を扱へるようになつた。今ではIP化で更に多数を扱へるようになつた。さういふ技術の進歩だけではなく、特にプラザ合意以降の円高と海外旅行などで欧米の思想が流入し社会を破壊した。当時は東京でも板橋区や北区や世田谷区はバキユームカーが走つてゐた。(完)


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