三百二十四、杉並界隈の話題(チヤンドラボースの遺骨)

平成24年
十一月二十四日(土)「チヤンドラボースの遺骨」
従兄弟の一周忌で杉並区の寺に行つた。法要まで時間があつたので近くの蓮光寺といふ寺に寄つた。ここにはチヤンドラボースの遺骨が六十七年間眠り帰国を待つてゐる。
チヤンドラボースはインドの独立運動家で国民会議派の議長を二回務めた。しかしガンデイーの穏健派と対立し、後に国民会議派を除名になつた。イギリスから独立するため日本を頼り、中村屋のビハーリボースが病気の後は後継者としてインド国民軍最高司令官に就任した。その後、日本の援助で自由インド仮政府首班に就任し大東亜会議にオブザーバーとして参加した。日本の敗戦直後、日本軍の協力で東京経由ソ連に向かはうとして台湾の飛行場で九七式重爆撃機が墜落し死亡した。

十一月二十五日(日)「遺骨が帰国できない理由」
インドではチヤンドラボースは独立の英雄である。国会議事堂の正面にチヤンドラボース、右にガンディー、左にネルーの肖像画が掲げられてゐる。コルカタの国際空港はネタージスバスチヤンドラボース国際空港である。
それなのに遺骨が帰国できない理由について昭和33年に結成されたスバスチャンドラボースアカデミーの林正夫事務長は次のように語つた。
一つは第1回の調査団の時のサラット・ボース氏が『死んでいない』と反対したことである。
第二はネール首相が政敵であったネタージに対して多少憎しみがあったことで遅れたと思っている。日本軍がビルマに進駐したとき、中立的立場に変わったガンヂーに反して親英的なネールは抵抗するため中国まで飛び援蒋ルートに力を尽くしたことでも明白である。

日本がアジアの開放のために戦争を起こしたといふのは虚偽である。それは明治時代に日英同盟を結んだ時点で日本は帝国主義の側に入つてしまつた。しかし先の大戦において英米仏が正しいといふのは更に虚偽である。英仏は世界最大の帝国主義国であり、米国は国自体が植民地である。チヤンドラボースが親日、ガンヂーが中立、ネールが親英。蒋介石が親米英、毛沢東が反米英、汪兆銘が親日。これらを理解しないと、日本は永久に米国の属領の地位に留まつたりその反動でアメリカと集団的自衛権などと言ひ出す。

十二月一日(土)「アレクサンダー・ヴェルト著『インド独立にかけたチャンドラボースの生涯』その一」
アレクサンダー・ヴェルト著「インド独立にかけたチャンドラボースの生涯」はインド、ドイツ、日本の有志の共同研究をまとめ昭和四六年に発行された。一読の価値のある書籍である。ドイツが入つてゐるのはボースはイギリス官憲によつてインドからオーストリアに療養の名目で追放されたことがあるためである。国民会議派の創始者はイギリス人で、イギリスの統治を助ける御用機関だつたが、後に民族主義になつた。国民会議派は内部の対立や分裂を繰り返したが、後にガンジーが強大な力をつけた。
当時マハトマ・ガンジーは隠者的生活を送り、会議派の議事や運営上、表面に立って活動することはまったくなかったが、実際はすべてが、彼の指示によって動かされていた。(中略)長い間亡命生活や療養のため国をはなれていたボースには、こうした陰の仕組がよくのみこめなかった。また過去数年の間にガンジーの力が想像も出来ないほど強大なものとなっていたことがわからなかった。

ボースは前年に続き議長に立候補した。前年はガンジーの指名だつたが今回はガンジーの指名した候補を大差で破つた。ネルーはボースと同じ左派でガンジーとはたびたび対立したがガンジーが幹部に指名してからガンジー派になつた。ガンジーは同じ方法を前年ボースに用いたのだつた。
ガンジーは聖者から闘士に変貌、ボースへの熾烈な反撃を開始した。
まず、運営委員十三人中、ボースの兄サラット一人を残し、十二名が連袂辞任、ガンジーの意向を知った他の幹部は誰一人として、ボースに協力して運営委員になろうという者がなかった。(中略)ネールや詩人タゴールが調停に入っても、ガンジーはなんかせず、ボースを追い詰める作戦を強化した。

ボースは病に倒れ車椅子で出席したが重病で演説も出来なかつた。会議後もガンジーとの和解を試みたがガンジー派受け付けず、万策つきて議長を辞任した。
ガンジーは追撃の手をゆるめず、更にボースをベンガル州会議派委員長の椅子から追い、更に一九三九年八月以降三年間は、会議派の如何なる役職にもボースはつかせないと、新運営委員会に決議させている。

十二月二日(日)「アレクサンダー・ヴェルト著『インド独立にかけたチャンドラボースの生涯』その二」
ボースの欧州滞在中の話を幾つか紹介したい。
・ヒットラーは、その著書『マイン・カンプ(我が闘争)の中で、インド人を蔑視、インドの独立運動は全然見込みがないとこきおろしている。ボースはヒットラーとさしでゆっくりと話して、こうした偏見を捨ててもらいたいと念願していた。(中略)しかしこの第一次訪独中には、ボースとヒットラーの会見は遂に実現しなかった。当時ヒットラーの片腕とまで言われたゲッペルス宣伝相にも会えず、ナチ党の外務部幹部にも会えなかった。
・ボースにとって多少の収穫があったのは、フランク博士の世話で、ナチ党内の反主流派の幹部との面接であった。(中略)ナチ反主流派はインド民衆の苦難に全面的な同情を示し、もしベンガルのテロリストが反英武力闘争を行なうのなら、ドイツから武器を送ってもよいとの意志表示を行なった。

フランク博士といふのはこの書籍の共著者でインド・ドイツ協会代表であり、この当時はベルリンの工業高校の教頭だつた。次に今の日本に役立つ話が載つてゐる。
・ヒットラーが終始変らなかったのは、ユダヤ人とソ連への憎悪と、(中略)したがって有色人種はすべて蔑視した。『マイン・カンプ』では、インド人だけでなく、日本人を含む黄色人種にまで悪態をついている。
・ボースは自分の説得力に自信を持っていたので、ヒットラーといえども、一度さしで懇談したら必ず、その人種偏見を捨てさせることが出来ると信じていた。ヒットラーの人種偏見がまったく病的で、この面ではヒットラーは狂人であったことを思うと、ボースは大きな誤算をしたようだが、ヒットラー評価で誤算をしたのはスターリンも東条も同じ、ボースだけを責めるわけにはゆかない。
・亡命中ボースは各国の独立運動と革命の歴史を熱心に勉強したが、特に強い印象を受けたのはアイルランドとトルコの独立史と、ドイツが行なった援助方法であった。
長い間イギリスの圧制に悩んでいたアイルランドが独立を達成したのは大戦後で、ドイツ帝国は戦時中陰に陽にアイルランドの独立運動を助け、ドイツは大戦に敗れたがアイルランドは独立出来たのである。
・アイルランドが第二次大戦で、イギリスの執拗な要請があったのにもかかわらず、厳正中立の立場を堅持したことは、よく知られている。

第二次世界大戦は帝国主義どうしの醜い植民地獲得戦争である。そのことを理解しないと英米は正しくて日本は間違つてゐるといふ丸山真男や朝日新聞並みの偏向となつてしまふ。この考へ方のどこが悪いかといふと反社会的になることである。日本古来のものを破壊し英米の猿真似を繰り返す。これは国民の生活を破壊する。

十二月二日(日)その二「山田晋著『インド民族運動史』」
ボースの側からの見方だけでは片手落ちである。ガンジーの側からも見ようと山田晋氏の『インド民族運動史』も読んだ。ボースとガンジーのどちらを支持するかと問はれれば両方である。どちらをより支持するかと問はれればガンジーである。その非暴力も理由ではあるが、西洋近代文明を批判的に見たことが一番の理由である。ガンジーは一九四〇年に12項目の建設的プログラムを発表した。このなかの四つは特に賛成である。賛成の部分を紫にした。
(四)手織綿布の普及-独立への意識を高めるものであり、非暴力の象徴。
(五)村落産業-インドは村落に生きる。村落の再生、貧困の追放こそ独立の保障。
(七)新しい基礎教育-円満な人格形成をめざし、単なる知識の習得を排除
(十一)国語の普及と母国語の尊重-インドの言語問題は英語の廃止、国語の普及、地方語の尊重の三つの面から解決。

『インド民族運動史』は昭和五五年に出版された。ベトナム戦争が終はり、しかしポルポトの大虐殺が起きて、世界は資本主義陣営の勝利に傾き始めた時期である。だから第二次世界大戦当時の記述はイギリス側に相当偏つた内容である。そこが昭和四六年に出版された「インド独立にかけたチャンドラボースの生涯」との違ひである。

十二月三日(月)「ガンジーとボースの違ひ」
ガンジーの非暴力は私も同感である。『インド民族運動史』はイギリスがインドで行なつたことが出版時(昭和五五年)にも続く貧困の原因と述べる。第一次大戦での約束を破つたこともひどい話である。それにも係はらずガンジーが日本やドイツではなくイギリスを支持したのは、戦争を仕掛けたのはドイツや日本だからではないのか。これは非暴力のガンジーにとつては当然である。
帝国主義といふ点から言へば、西洋列強および日本はすべて同罪である。『インド民族運動史』は英米仏は正しくて日本は間違つてゐると記述する。これは山田晋氏の偏向でありガンジーの主張とは異なる。日本は昭和五十年代から偏向がひどくなつた。それは五五年体制の崩壊が原因だが日本国内では誰も指摘しなかつた。(完)


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