四百二十一、三原橋と歌舞伎座(その二)


平成25年
六月十五日(土)「歌舞伎が庶民の娯楽ではなくなつた理由を探る」
能が大名の娯楽なのに対して、歌舞伎は庶民の娯楽だといはれる。しかし今の歌舞伎は庶民の娯楽とは程遠い。その理由を考へてみた。入場料の高さと舞台からの遠さである。歌舞伎座で九月の入場料は1等席18000円、1階桟敷席20000円である。3階A席6000円、3階B席4000円だと安いが3階B席といふのは幕見席のすぐ下で幕見席とほとんど差はない(旧歌舞伎座の場合。尤も幕見席を全幕見るのと3階B席の料金ははあまり変はらないからそのうち3階B席で見ようと思ふうちに建て替へになつた)。
マイクやスピーカーといふくだらぬ物が発明されたため、世界中の芸能がめちやくちやになつた。その流れで劇場の大型化と歌舞伎の高尚化、俳優の奢侈化が始まつたのではないのか。まつたく同じではないが服部幸雄著「江戸歌舞伎」に明治維新による社会の変化が江戸時代までの歌舞伎を大きく変へたことが載つてゐる。まづ
「芝居見物」の楽しみが、江戸時代末までは確かにあった。いや、いろいろと条件が変わり、急速で失われていったとはいえ、明治・大正、そして一層の変貌・変質を経ながらも第二次世界大戦までは、その気分は確かに残っていた。


六月十六日(日)「芝居見物」
服部氏は自身の思ひ出として
料金が高いこともむろん関係しているだろうが、近年の歌舞伎劇場で子どもの姿を見かけるのは、まず極めて稀である。私が子どものころ、というと戦前の話だが、小学校に入るか入らぬかという年齢にもかかわらず、家族は芝居見物にいつも私を連れて行ってくれたものである。桟敷に座っての見物だから、わけのわからない子どもは食べて寝そべって、ついでにきれいな舞台や役者を見て、ここで一日を過ごすのである。

小学生は両親や祖父母から歌舞伎の説明を聞いて自然と親しむやうになる。今は子どものときから見ないから歌舞伎を無縁のものだと感じてしまふ。私の場合歌舞伎ではないが小学生のとき遊びに行つた家のおぢいさんがよくラヂオで相撲中継を聞いた。だから今でも相撲中継の音を聞くと懐かしく感じる。服部氏の歌舞伎もそれと同じ感覚ではないだらうか。服部氏は次に
現代の歌舞伎見物は、はたして本当に楽しい娯楽たり得ているだろうか。私は正直に言って、あんまり楽しくはないのではないかと思う。

といふ。それは近年の観客が行儀よく静かになり、たまに紙袋やセロファン袋を取り出してガシャガシャと音を立てたりお煎餅を噛む音がしたりすれば前の人に睨みつけられる状況なのに対して昔は
役者と観客とが一体になり、ある時には役者も「見る人」になり、観客も「見られる人」になるような、そういう共同体的な関係でのみ成立する。観客どうしも、まるで隣人のように親しく語り合い、楽しみを共有する。少なくとも咳払いをして人を牽制したり、睨みつけて無言の抗議をするような野暮なことはない。これではまるで敵同士が同席しているようなものではないか。


六月十七日(月)「後から芝居を見る」

地方の文化会館や市民ホールのような多目的ホールには、花道がない。(中略)舞台は厚い緞帳で観客席と区切られている。こんなところで「芝居」ができると思っているところに、近代の日本人の文化意識の低さが露呈している。
花道はしっかりしたものが付いていても、その背後にあるべき桟敷のない歌舞伎劇場があるのを、私は許すことができない。(中略)お役人と建築家の無知は、糾弾されねばなるまいと思う。


明治の演劇改良運動のなかの劇場改革の中で、櫓、絵看板、茶屋が廃止されたり制限された。女形、花道も廃止すべきだといふ議論もあつたが現在に残った。
そんな愚かしい「近代化」を唱える大嵐の吹き荒れた退廃の時代だったが、それでも「桟敷をなくそう」などという暴論は、さすがに一言も聞かれなかった。あの装置をなくしてしまったら、芝居見物の楽しみがなくなってしまうことはわかっていたし、歌舞伎という演劇が桟敷の観客をかかえ込んでの演劇空間の存在を前提にして成り立っているという原理を、明治の人たちは肌で感じて知っていたからに違いない。

桟敷だけではない。江戸の芝居小屋は張り出し舞台で土間や東西の敷居が奥まであつたから、常に役者の芸を横や後から見る観客がゐた。

六月十九日(水)「舞台と区別のない観客席」

江戸時代の芝居小屋では、舞台と観客席との厳密な区別はなかった。(中略)だから、大入り満員になれば、観客をどんどんと舞台の上に上げて座らせた。


かうでなければ歌舞伎は庶民の芝居とはならない。
東西の両桟敷だけを座る客席として残し、土間(平場)のすべてを椅子席とする様式は、早い劇場では大正の初頭、遅い劇場では昭和十年前後から、試行錯誤を繰り返しながら次第に定着したものがあった。(中略)座布団の上で疲れた足を伸ばしたり(狭いながらもくつろげる空間から、あらかじめ一定の方向に姿勢を固定されてしまっている椅子席への変化は(中略)もはやかつてのように夜明けから日没までをここに費やす一日の遊楽は、とうてい望むべくもない。(中略)観客席は、一人一人が孤独で、何となくよそよそしくなる「場」である。かつての座る席のように、窮屈でもくつろいだ雰囲気、隣の席に来合わせた見物客ともすぐに親しくなれそうな、共同体的な、その意味で人間的な温かみを演出する仕掛けを、椅子席に期待しても無理である。


桟敷席は寄席の新宿末広亭の二階に残つてゐる。或いは国技館にも残つてゐる。確かにこの雰囲気ではないと温かみのある芝居見物はできない。そればかりではない。上手の歩み(土間の観客のための通路で、東の花道としても機能した)を廃止したため、花道は下手の本花道だけになつたといふ。

六月二十一日(金)「明治の歌舞伎改良」
江戸時代は
「今の芝居は世の中の物真似をするにあらず、芝居が本となりて、世の中が芝居の真似をするやうになれり」(文化十三年序『世事見聞録』)とまで言われるほど民衆生活の全般に大きな影響を与えてきた。それが新政府に、教育制度改革にまさるともおとらぬほどの熱意を「演劇改良」に対して持たせた理由であった。(以下略)
新築の守田座は規模の拡大、外人用椅子席の新設、舞台・楽屋の拡張などいくたの面に改良を加え、「小屋」のイメージからいっきょに近代的大劇場への飛躍を示した。


守田座は明治九年に焼失し十一年に新築した。
最大の変革と言うべきは、ここにはじめて額縁式の舞台が設置されたことであろう。(中略)舞台上の役者と土間・桟敷の見物とが一体になって醸し出す劇的世界の興奮は、期待できなくなった。


劇場とともに歌舞伎自体も変へようとした。
行き過ぎた欧化改良主義、その実践であった「活歴」は九代目市川團十郎のはげしい情熱と卓越した演技力をもってしても一般大衆の喜ぶところとはならず、それをめぐって活発な論争や批判を経たのち、挫折していく。


「活歴」とは史実に沿つた歌舞伎にすることである。
また演技の方法としては、従来の類型的な役柄に即した創造法を否定し、脚本解釈から入って人物の個性的性格を尋ね、その心理の内奥に入ってこころを表現する道をとった。しぜん「動き」は極端に抑制され、腹と表情に表現させることになって、「動かない芝居」となった。「腹芸」と呼ばれるものである。


観客からそつぽを向かれ、團十郎は晩年に古典歌舞伎に回帰した。しかしそれは江戸歌舞伎ではなく近代的な歌舞伎だつた。それは役者の芸よりも脚本の先行、(中略)「役になりきる」演技術、動かない腹芸、そして大劇場と額縁式の舞台であつた。

六月二十二日(土)「狂言作者」
狂言といふ言葉には幾つかの意味がある。猿楽では滑稽な部分を特化した芸能のことだが、歌舞伎では歌舞伎の演目のことをいふ。歌舞伎の狂言を作る作者かかつては次々と新しい狂言を作つた。狂言作者には立作者とそれを手伝ふ二枚目以下の作者がゐる。二枚目以下は上演の雑用も受け持つた。
明治中期(中略)歌舞伎座の創設に奔走して千葉勝五郎と相座元となった福地桜痴(一八四一~一九〇六)は、まもなく座元を千葉に譲ったが、自分は作者として関係を持ちつづけた。作者部屋の出身ではなく、外部の素人出身で、立作者的存在になって『春日局』ほか多くの作品を提供した(後略)。榎本虎彦(一八六六~一九一六)がやはり素人出身の作者として狂言作者見習いの格で桜痴の門に入り、桜痴の没した明治三十九年以後、歌舞伎座の立作者となった。
こうなると、立作者の仕事は外部からくる劇作家に取って代わられ、二枚目以下の狂言作者は雑務担当者に落ち着くことが決定的になった。(中略)しかも狂言の固定(古典化) は日に日に進みつつあった。こうなると、歌舞伎に「作り」は無用になった。


六月二十九日(土)「歌舞伎座」
松坂屋銀座店が明日で閉店するので松坂屋に行つた。開店は八十八年前ださうだ。帰りに歌舞伎座の地下と一階の外側を見た。前回も来たので五階の歌舞伎座ギヤラリーは見なかつた。今回初めて知つたが幕見席は二千円でずいぶん高い。三階B席は四千円で何幕も見られるからである。しかし今は新しい歌舞伎座に物珍しさで来る人も多い。幕見席を高くするのも一理はある。

今回この特集の調査で判つたことがある。掛け声の観客は無料で幕見席に入れる会員である。それも一理ある。掛け声があれば観客もよい気分になれる。しかし普通の観客が声を掛けられない芝居は八百長芝居である。
まう一つよくないことがある。名跡の世襲である。中村仲蔵は大部屋から相中(あいちゅう)、相中上分(あいちゅうかみぶん)、名題下(なだいした)を経て名代にまで出世した。今は名代、名代下の二つしかないが有名な役者は世襲でしかなれない。中村仲蔵のやうな役者が二十年に一人くらいは現れないと歌舞伎に未来はない。 (完)


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