四百五、上野界隈の話題


平成25年
四月二十九日(月)「上野から鶯谷まで歩く理由」
今日は我が家のお墓参りに行つて来た。鶯谷駅に近いが上野駅から歩いた。五年ほど前もこの方法を用いてそれ以来お墓参りは上野から歩くといふ習慣が出来てしまつた。一時、東京から浦和の実家に行くのにJRを使はないといふ習慣ができて、都バスの大和町から中山道を浦和まで歩き続けたことがある。毎回同じだと飽きるから最初は17号、次は旧中山道と変化をつけた。重い旅行かばんを持ち同じ景色を見ながら長距離を毎回歩くのは苦痛である。だから板橋大仏を見て笹目橋を渡つたり、中野区(定期券がここまである)から高円寺まで歩いて関東バスで赤羽まで乗り新荒川大橋を渡り東北線に沿つたり緑川と竪川を調べるため浦和東部を回つたりした。国鉄争議団が和解してJR不乗車運動も止めてからバスで中十条四丁目まで行き赤羽まで歩いてあとはJRを使つたりといろいろ変化を持たせた。バスに乗る理由はバスカードを応援しようといふ意味もあつた。ところがバスカードが廃止になりバス特といふ実際はバス損になつたため、今はバス特不使用運動を始めてJRで行くようになつた。といふことで一旦習慣になると長く続くのである。
上野と鶯谷は近いから今後二十年は続けられるだらう。たまたまオートバイ小売店の労働争議に出会つたことがある。全統一加盟の組合だつた。一年くらいすると全国一般東京南部だとかあちこちの組合旗が掲げられ、一方で一階に暴力団事務所が入り緊張状態だつた。その後争議は解決した。

四月三十日(火)「昭和通り」
昨日は久しぶりに昭和通りを歩いた。いつもは一本西側の小道を歩くからである。仏具屋の多いことに驚いた。あと中小企業の多いことにも驚いた。自民党はもつと個人商店、中小企業に注目すべきだ。この前の安部首相の答弁はなつてない。大企業にしか目が行つてゐない。議員の段階では個人商店や中小企業は支持層である。この辺りの中小企業に深谷隆司のポスターが貼られてゐた。深谷隆司といへば私が高校生のころ既に衆議院議員だつた。自民党青年局長を名乗つてゐたが今ではすつかり老年局長になつてしまつた。

台東区の案内図によると、玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)の墓、伊能忠敬の墓も付近にある。私もここから歩いて十五分ほどの所に住んでゐたから判るが、昔の市街は史跡の宝庫である。かういふ処に住めば自然と歴史に興味を持つ。一方で農村には農村の伝統がある。距離感が長いから史跡もある。一番いけないのは新興住宅地である。農村を潰した住宅地は距離感が短く何もない。

五月一日(水)「上野松坂屋」
昔は国鉄に乗るには、都電で上野広小路に出て御徒町から秋葉原方面に乗るか、上野公園で降りて上野から日暮里方面に乗つた。だから上野と御徒町の間は乗つたことがなかつた。鉄道の窓から西郷さんの銅像が見えることを知つたのは高校生のときに江戸市外足立郡に引つ越してからである。
小学生のときはよく母に連れられて御徒町から上野広小路に戻る途中、松坂屋の地下の食料品売り場に寄つた。或いは吉池の食料品売り場に寄ることもあつた。松坂屋は本館と新館があり、当時は地下、四階、六階で連絡してゐた。今は屋上でも連絡してゐる。当時は本館、新館の両方に屋上遊園があつた。本館は奥に八台、手前に二台のエレベータがあつたが、手前の二台と奥のうちの右半分は確か昭和四十五年ころ廃止された。今でもエレベータの跡が残つてゐる。その後もエレベータ係の女性が乗務したが平成年間に入つてからだらうか無人になつた。
新館はおそらく三十年くらい前だらうか南館と名称を変へた。そして来年取り壊すさうだ。

五月二日(木)「リストラン」
鶯谷は私が所属する労組と係はりがある。リストランといふ飲み屋を全労協系の労組三つが中心になつて始めた。うちの労組の委員長が名前だけでいいといふので社長になつた。ところが倒産し大変なことになつた。
場所はホテルシヤーウツドの後方で、國柱會(分裂前)があつた位置の50mくらい北側である。國柱會の正確な位置は知らないが雑誌にホテルシヤーウツドの向ひといふ記事があり三年くらいそれが正しいと思つてゐた。たまたまこの記事を書くためホームページを検索すると場所を特定してゐるものがあつた。それによるとシヤーウツドの右斜め前の今は華学園の建つ位置である。

五月三日(金)「電算労」
鶯谷には電算労といふ労働者供給を行なふ労組がある。電算労は左派組合なので危機感を懐いた連合系が対抗して労組を作つたといふニユースを読んだことがある。かつては労働組合にしか労働者供給はできなかつたが、天下の大悪法、労働者派遣法ができたため今は誰でも派遣といふ名の労働者供給をできるようになつてしまつた。
私も前に一回説明を伺いに訪問したことがある。これから子供が進学を迎へソフト会社より電算労の労働者供給のほうがよいかと考へたこともあつた。当時は会社側が団交拒否だとかを仕掛けてきたので都労委だ中労委だと対応をするうちに時機を逸してしまつた。

五月四日(土)「歩行者天国」
昭和四十八年に上野の歩行者天国と銀座の歩行者天国が連結し日本一長い歩行者天国が実現した。当時は自動車排気ガスの鉛公害が社会問題化した直後で、道路を自動車から人間に取り戻さうといふ当時の美濃部都知事の構想であつた。美濃部の発想は道路の規制を強くしそれに引つかかつた道路は自動車通行止にするといふもので反近代文明の思想であり、私もこの考へに賛成である。しかし美濃部は多選を重ねるうちに私欲が強くなり参議院全国区に当選したりした。転落後の美濃部の醜態が革新知事革新市長を減衰させる一因になつたと思ふ。
その後自動車が一般の家庭にも普及し、その一方で道路を歩く人は少なくなり、歩行者天国は銀座と秋葉原だけになつてしまつた。

五月五日(日)「吉池寄席」
東京の落語には落語協会と落語芸術協会がある。普通は両方の協会が十日づつ交互に出演するが昭和五十九年に鈴本演芸場が落語芸術協会に対して落語協会の助演を受け入れるよう要請した。芸術協会は人気のある落語家がゐないと云はれたに等しく芸術協会は鈴本と断絶した。そして吉池七階の和室で土曜に寄席を開いた。私は昭和六十四年に一回聴きに行つた。かなりの広さなのにマイクを使はず落語家の大きな声量を直に聴けて魅力ある寄席だつた。
インターネツトで調べると、消防庁に劇場の許可を得てゐなかつたので飲料水などの販売があつたと書いてあるが、私は注文した記憶がない。売りに来たが買はなかつたのかも知れない。お江戸上野広小路亭の開設で終了したとも書かれてゐるが逆ではないか。吉池が終了し、芸術協会が次の開催場所を探したように記憶してゐる。
吉池寄席の近くの上野黒門町に講談の本牧亭があつてやはり聴きに行つたことがある。浅草演芸ホール、池袋演芸場、新宿末廣亭、国立演芸場、浪曲の木馬館にも行つたが、鈴本演芸場は一回も行つたことがない。人気のある落語家が落語協会より少し少ないとはいへ落語芸術協会を追い出したそのやり方が好きではないからである。
国立演芸場で前から五番目くらいの席で丁度、漫才を腕を組んで見てゐたら片方の漫才師と目が合い、「あ、そこのお客さん、腕を組んで見てゐますが大丈夫でせうか」といふので慌てて腕を下ろしたことがあつた。国立演芸場は最高裁判所の隣である。つひ腕を組みたくなる。今から30年近く前の話である。

五月六日(月)「ABABと京成百貨店」
広小路と上野駅の中間に赤札堂といふ衣類その他を安く売る店があり賑はつた。赤札堂は都内十数店舗のAマートといふスーパーも経営してゐた。昭和四十五年に赤札堂をABAB(アブアブ)といふフアツシヨン店に改造し、都内各地のAマートを赤札堂と改名した。ABABはその前までスタンプ形式のポイントサービスを行なつてゐたがレツドチツプ(形式は同じだが交換比率が悪い)に変へた。レツドチツプはブルーチツプ(別会社のポイントサービス)と相互乗り入れした。今思ふと赤札堂は経営が上手である。その後多くの百貨店が歩む道をその二十年前に実行したのだから。

JR上野駅の向ひに京成百貨店上野店があつた。私は昭和五十五年ころ地下鉄からそのまま地下の書籍売り場によく行つた。しかし上野店は後に丸井になつてしまつた。

五月六日(月)その二「ミヤンマーと関係の深い会社」
二十年前私の勤務する会社にソフトウエアの問ひ合はせがあつた。私がまづ訪問した。場所は上野から少し浅草方面に行つたところだつた。話の大筋は伺つたので二回目は営業といつしよに訪問しあとはその営業に任せた。入口にミヤンマーの写真だつたか銅像だつたかが飾つてあるので質問すると、社長がミヤンマーと関係があるといふことだつた。半年ほどして仕事を担当したうちの技術者に聴いたところ仕事はうまくいつたといふので、私も胸をなでおろした。
私は長いこと上座部仏教はタイまたはスリランカだつたが五年ほど前からミヤンマーが中心になつた。二十年前の取引は完全に忘れてゐたが、今回の上野の特集で思ひ出した。(完)


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