三百五十九、山口二郎氏の精神主義批判は間違つてゐる(その五)
平成25年
二月三日(日)「本日の東京新聞のコラム」
山口二郎氏の「精神主義の害悪」は一見正しいように見へて実は間違つてゐる。精神主義を辞書で調べると「物質的なものより精神的なものを重視する。物質主義 の対義語」「唯心論。観念論。唯物論の対義語」といふような説明が出てくる。ところが山口氏は連日報道されてゐる学校や柔道女子日本代表チームの体罰、暴力と絡めて精神主義を使用した。しかしそれらは精神主義ではなく根性論である。
根性が大切だとハツパを掛けるやり方は一般にはよくないが必要な場合もある。それとは別に方法論として体罰、暴力、パワハラが許されるかと言へば、絶対に許されないといふのが私の立場である。だから私と山口氏は一見、同じように見へるが、その目的は正反対である。
二月四日(月)「非常能力」
火事場の馬鹿力といふ諺があるように、人間には非常時に出る力がある。しかし普段から使つてゐると病気の原因になる。使つてはいけないのに使ふから過労死といふ言葉まで生まれた。IT業界はうつ病が多いが、発病前に長時間残業をすることが多い。そして一旦うつ病になると治療しても九割は再発し退職に追ひ込まれる。
無理なことは強制しないといふ習慣がなぜ日本社会にないかといへば、明治維新以降世の中が急激に変化したからだ。更に高度経済成長で急激に変化したからだ。ところが山口氏は
建前や大目標が支配する空間における精神主義の病理が露呈した結果だと、私は考えている
と精神主義のせいにした。昨日も述べたように精神主義の本来の意味は、物質主義と唯物論の対義語である。そこをあいまいにしたままで根性論の意味で使ひ、それでゐて読者には精神主義が悪いような印象を与へる。実に手の込んだ工作である。
山口氏ではないが数年前まで似たような工作がもう一つあつた。文明と文化の定義をあいまいにしたままで、日本文明、日本文明とさかんに使ひ日本を脱亜入米しようとした連中である。しかし福沢諭吉ではあるまいしすることが古過ぎた。どちらも根底にあるのは日本を更に西洋化することである。だから山口氏は
先の大戦でも表れたように、日本人は成算なしに頑張ることが好きである。(中略)付いていけないヘタレには、暴力で精神を注入しようとする。
と丸山真男ばりに日本批判西洋賞賛に向ふ。
二月六日(水)「目先の利益しか見ない」
山口氏はその次に
戦争に負けた後も、目標が利益追求や試合での勝利に代わっただけで、この精神主義は持続してきた。
と続けるが、西洋がなぜ帝国主義になつたかといへば生産力が急激に増大し世界秩序が追ひつかなかつたためだ。日本がなぜ戦争に負けたかといへば、根底は西洋の猿真似だからだし、小さな軍事衝突に過ぎなかつた日華事変に対し先のことを考へず背後に米英がゐることを考へずに拡大したからだ。中国国民の反日感情がなぜ高くなつたかは、将来を考へず二十一ヶ条を突きつけるからだ。
日本は戦争に負けた後は、確かに利益追求や試合での勝利に代はつただけで視野が狭い。しかし西洋が帝国主義に至つた原因と日本が敗戦に至つた原因を考えず、精神主義のせいにする山口氏は同じく視野が狭い。
二月七日(木)「不信感の根源は菅直人だ」
山口氏はコラムの最後の段落で
結局、社会の根底にあるのは、人間の自発性に対する不信感と、合理的な動機付けを無視する発想である。人間の尊厳を守るということをわれわれはどこまで真面目に考えているのか。
と書いた。しかし菅、野田のやつたことは「人間の自発性に対する不信感」に留まらない。「人間に対する不信感」である。それなのに山口氏は二人、特に菅に肩入れをする。根底にアメリカ式の新自由主義がある。それは「合理的な動機付け」といふ表現に表れる。経済利益や社会的名誉を求めて競争をすることこそ「合理的な動機付け」だからだ。(完)
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