三百五十八、原理主義はどこがいけないか


平成25年
二月一日(金)「原理主義とは」
原理主義とは教祖、政治指導者の言つたことを、一文一句そのままに実行しようとする主張である。当時と現代は背景が異なるし時代も異なる。これらの違ひを無視して実行しようとするから無理が生じる。
教祖や政治指導者が現れた時代には、世の中に大変な不平衡があつた。それを解決するために教義や思想を興したのだが、今は不平衡が解決したか或いは別の不平衡に置き換はつた。その違ひに適応しないと国民の支持は得られない。

二月三日(日)「イスラム原理主義」
原理主義といふと誰もがイスラム教を連想するどたらう。しかしイスラム教徒の大部分は原理主義ではない。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、儒教道教は長い歴史の中で永続可能な宗教となつたからである。二十五年くらい前だらうかマレーシアに観光旅行に行つたとき機中で税関の書類に目をやると、イスラエルからの物品は持ち込み禁止と書かれてゐた。マレーシアは穏健なイスラム国である。それにも係らずパレスチナと連帯するその姿勢に共感を覚へた。穏健ではあるがアラブと連帯することはよいことである。
イスラム原理主義にも共感できる部分はある。欧米が西洋文明を押し付け、それにより社会が混乱したからである。しかも欧州が自分たちに都合がよいようにユダヤ人をアラブ地域に押し付けイスラエルを建国した。イスラム教徒の怒りはもつともである。更に最近では西洋文明による地球滅亡が目前にせまつた。西洋文明とイスラム原理主義のどちらがより人類と全生物の味方かは明らかである。

二月五日(火)「森達也氏の『間違ってはいけない。信仰は無慈悲で残虐、アンフェアだ』、その一」
私が今回の特集を組んだきっかけは、森達也氏の『間違ってはいけない。信仰は無慈悲で残虐、アンフェアだ』といふDiamond Onlineに載つた記事である。
アラブの男は髭をあまり剃らない。もし日本にもそんな文化があるとしたら、やはり男たちは今よりは凶暴に見えるはずだ。

森氏はこの直後に、ゼミの学生たちにイスラム礼拝施設に一回は行かないと単位はやらないと行かせ話しかけさせる。感想を訊くと、普通の人のように受け答えしてくれたと驚くさうだ。この話はこの部分があるので均衡を保つた印象を受けるが、イスラム過激派は怖さうに見えるとさんざん書きまくつたから、結局は西洋近代主義で見れば普通の人間だといふ西洋礼拝に過ぎない。

二月六日(水)「森達也氏の『間違ってはいけない。信仰は無慈悲で残虐、アンフェアだ』、その二」
次に森氏は「麻原の処刑は政権支持率を上昇させるカンフルか」といふ小見出しの章で、週刊ポストの記事を引用する。森氏自身は引用するだけで意見を述べないが、麻原の死刑を批判したものだと誰もが判る。その次の「宗教には生と死を逆転してしまう機能がある」の章では次のように述べる。
念を押すが、アルカイダにしてもオウムにしても、非難されることは当然だ。この社会の法やルールに背き、多くの人を殺害したのだから、相応の懲罰を受けることも当たり前。でも人殺し集団だから宗教集団ではないとの見方は違う。それは当時から今に至るまでオウムを規定する際の大きな前提だけど、解釈としてはあまりに浅い。殺戮と信仰は相反しない。むしろ親和性が強い。

この主張には絶対反対である。森氏は続けて
宗教には生と死とを逆転してしまう機能がある。つまり現世の命を軽視する場合がある。オウムやイスラムだけではない。例えば旧約聖書には以下のような記述がある。
あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。
すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。
(申命記20章10~17節)


を引用し更に民数記31章14~18節も引用し、更にノアの方舟、バベルの塔、正しい者が10人いたら滅ぼさないとの約束を反故にしてソドムとゴモラを焼き払つた例を紹介した。

二月七日(木)「森達也氏を批判」
森氏は
いずれにせよ信仰は、(僕らのレベルで)平和で公平で慈悲深いものと思わないほうがいい。その前提はイメージを規定する。しかも間違えている。それこそ共同幻想だ。歎異抄で親鸞が弟子の唯円に述べたように、信仰は決して生易しい存在ではない。しかも宗教的な内実が薄い日本人はこの幻想を抱きやすい。

と述べるが、だから私は宗教とは長期間に亘り多数の人に信仰されたものと定義した。教祖は人格者だつたかも知れないし残忍性を帯びてゐたかも知れない。しかしその後、長期に亘り信仰される間にとげは削られ社会に有意義なものになつたはずだ。一方で堕落もある。信仰の希薄化、金銭欲、戒律破壊、特権化などである。
これらのバランスを経て今日の宗教がある。だから我々は現在の僧侶と信徒の姿を見て個々の宗教を判断すべきだ。
森氏はオウム事件について
オウムが起こした一連の事件については、きわめて宗教的な動機が背景に働いていたと考えている。その要素を代入しなければ、事件の骨格は絶対に読み解けないと思っている。

と述べるが間違ひも甚だしい。まづオウムは弁護士殺害事件を起こした。教団を批判する人間を抹殺するといふ俗的な方法である。自分のいふことに何でも従ふ信者に囲まれてゐるとさういふ人間になりがちである。殺害事件が発覚しさうになつたからサリン事件を起こして世間の目を逸らさうとした。あと選挙に出て全員落選したから復讐しようとした。それだけではないか。森氏は更に
極悪で金儲けにしか興味がない俗物詐欺師的な教祖が、弟子たちを洗脳して行わせた史上稀な凶悪犯罪。確かにそう考えればわかりやすい。断罪も簡単だ。でもそれは事実ではない。それでは子ども向けのアニメだ。

といふが、戦後は宗教の設立が自由になつたから、怪しげな連中が次々に現れる。古来、新しく作られた宗教の前段階のものは弾圧されたり無視されそれでも生き残つたものが宗教となつた。しかしオウムが宗教になる可能性はまつたくない。将に森氏の述べた「極悪で金儲けにしか興味がない俗物詐欺師的な教祖が、弟子たちを洗脳して行はせた史上稀な凶悪犯罪」だからだ。

二月九日(土)「長い歴史を無視することが原理主義だ」
森氏は「マルクスなんか読んだこともない」と語つたことがある。私も二年前までマルクスは読んだことがない。旧ソ連、中国、日本共産党を見て判断すれば十分である。二年前にマルクスを特集したことがあり、このとき初めて読んだ。宗教も同じで信者、僧侶を見れば十分である。
長い間の堕落を調べるには教祖の教へを読むべきだ。一方、時代と背景の相違を無視して教祖の言つたことをそのまま信じることは間違ひであり、そういふ行為が原理主義である。

二月十日(日)「西洋と日本の相違を無視することも原理主義だ」
西洋では長い歴史があるものでも、日本に持ち込むと原理主義になることが多い。理系は普通はならない。文系はなることが多い。西洋でも自由経済、民主主義は歴史が浅いし、日本では更に歴史が浅いからこれらを叫ぶと新自由主義になるし社会を破壊する。
森達也氏の主張が社会に有害であり、新自由主義なのもそこに由来する。(完)


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