三百五十三、学界からさよなら山口二郎(その四)


平成25年
一月二十一日(月)「悪質な言論を吐き続ける山口二郎」
山口二郎の言論は悪質である。国民の税金で給料をもらふくせに「さよなら小沢一郎」など悪質なコラムを幾つも発表するからだ。特に許し難いのは消費税増税に賛成したくせに野田を批判するふりをしたことだ。しかしそれは昨年の話だからもう山口氏を取り上げるのはやめようと思つた。ところが一月二十一日のコラム「体罰事件に思う」で丸山真男を賞賛した。
大阪の市立高校で体罰を受けた生徒が自殺した事件は、本当に痛ましい。(中略)体罰やハラスメントは必ず上から下へと伝染する。かつて丸山真男は抑圧移譲という言葉で日本社会における「権力の偏重」を説明した。

丸山と言ひ山口と言ひ、どちらもずいぶん出鱈目な分析である。

一月二十六日(土)「動的に考へぬ二人」
人間は放置すると誰でも堕落する(百十七、動的社会科学のすすめへ)。これは人間には理性と本能といふ二つの相反するものが存在するためであるが、下位者より上位者のほうが堕落の速度が速い。丸山と山口は世の中を静的にしか見ないから、なぜ上が下へハラスメントをするのか判らない。私は対策も提案したが(「長幼の序」へ)、山口氏は日本社会における「権力の偏重」といふ言ひ方をした。注目すべきは赤い部分である。丸山と山口は日本のものは駄目で欧米のものは優れてゐるといふ短絡思考しかない。戦後はそのような思考が続いた結果、今日の醜い日本が出来上がつた。更に遡れば明治維新後の薩長も此のように考たため、鹿鳴館やら他国への出兵が続きつひに敗戦した。

一月二十七日(日)「政権交代の意義」
山口氏は一月六日のコラム「政権交代の意義」で
年末に発足した安倍政権は、原発再開など次々と政策転換を打ち出している。

山口氏はさうした政策にはことごとく反対だが、やめろといふことはできず
むしろ、選挙の際に国民に訴えたことを、正直に実行するのが民主主義の理念にかなった行動ということになる。

選挙の際に国民に訴へたことを実行せず、訴へなかつたことを実行したのが菅であり野田ではないか。それなのに山口氏は菅を支持し、野田に対しても「野田首相は最大の敵ではない」と述べた。自己矛盾もはなはだしい。今回の安倍政権について
参院選までの半年を偽装穏健派で通すなら、それは国民を裏切る犯罪である。

この主張に従ふと菅と野田は犯罪者だし、山口氏は共犯者である。コラムの最後に与野党とも正直に語らなければならず、国民はしつかり覚へておかなくてはいけないと主張し
民主主義には記憶力が必要である。

と結んでゐる。その記憶力に欠けるのが山口氏である。不正直な菅、野田を支持したくせに正直に語らなければならないと主張するのだから。記憶力に欠ける者は国立大学には不要である。

一月三十一日(木)「一月二十日のコラムの結論」
再び一月二十日のコラムに戻ると、山口氏は「体罰やハラスメントは必ず上から下へと伝染する」といふが、体罰とハラスメントは違ふ。体育部の体罰はそれで競技が上手になると盲信してしまつたところから発生したもので、いはば方法の過ちである。しかし体罰も習慣化すると堕落する。一方でハラスメントは明らかに権力の濫用である。
どちらの場合も「かういふことは止めよう」といふ人もときどき現れて上から下に伝染しないこともある。なぜさういふ人がときどき現れるのか、或いはなぜさういふ人は少ないのかを分析し、さういふ人を多数にする方法を見つけることがまづ大切である。私が伝統文化、宗教、平衡などを言ひ続けるのはまさにそのためである。
二番目に上から下といふが、下が上にハラスメントをすることもある。将軍にハラスメントを続けた北条一族はいい例である。上か下かではなく力があるかないかで決まる。上下はアジア的だから丸山が標的にした。力の有る無しは西洋にも当てはまるから丸山は標的にしなかつた。といふよりは丸山はそこまで気がつかなかつたのだらう。
山口氏は一月二十日のコラムの最後で「今しなければならないのは、同じような苦しみを味わってきた子供が心を開いて相談できる体制をつくることである」と結論付けるが、相談できる体制を作つても労働基準監督署のように不親切な体制になりがちである。都道府県の労政事務所のほうが親切に相談に乗つてくれる。権力が一方に集まらないよう均衡させることも必要だが、均衡したはずの権力もまた堕落する。その対策まで考へるべきで「心を開いて相談できる体制」と安直に結論づけてはいけない。
今回の事件は主将の地位、競技を上達したいといふ熱意、競技を止めたら自分に何が残るかといふ葛藤の中で生じたもので、相談できるだけでは駄目である。問題点を毎日、或いは毎週に討論できる気質を日本に作るべきだ。 (完)


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