三百五十六、秩父事件


平成25年
一月二十七日(日)「井上幸治氏著『秩父事件』」
今月の読書勉強会は秩父事件である。井上幸治氏の著書を読みながら感想を皆で述べた。今回は参加者が四名と少なかつたが、皆が意見をたくさん言へてよかつた。
この本の書かれたのは昭和四三年で、当時はベトナム戦争の最中でアメリカ帝国主義といふ言葉が広く使はれ、日本で社会主義政権が誕生する可能性もまだ信じられた時代である。今なら、暴徒として片付けられたであらう。その一方で秩父事件は井上幸治氏が著書を出すまでは、地元では表には出せない事件だつたといふ。私が秩父事件を知つたのはNHK大河ドラマ「獅子の時代」である。田代栄助は志村喬が演じた。

秩父事件は、最初は秩父から浦和の県庁を占領する計画だつた。これも昭和四三年だからすんなり受け入れられる。当時の埼玉県は農村地帯だつた。戸田橋で国道十七号中仙道(当時はかう書いた)を渡るとあとは浦和市内に入るまで回りは田圃だつた。国道十七号も歩道のない両側があぜ道に接続する二車線の道路で車はほとんど走らなかつた。浦和市街に入るまでに信号は五箇所くらいしかなかつた。私は自転車で戸田橋から浦和市街まで無停車で走つたことがある。だから秩父から浦和を占領するといふのは実現性があつた。今出版するなら当時は農村地帯だつたことを説明しないと読者は理解できない。

一月三十一日(木)「懇親会」
読書勉強会の後は豊島公会堂近くのうなぎ屋で懇親会を行ふ。かういふ飲み屋は昭和四〇年代の雰囲気が残つてゐて心地がよい。私は最初のうちは参加したが、その後は懇親会には参加しなかつた。読書勉強会の参加者は副委員長Aさんの三里塚闘争時代の仲間が中心で友誼組合員(団交やストライキはやらない組合員)になつてくれた方も多い。
一回目は初めて聞く三里塚闘争の話で新鮮だつたが、二回目になると詳細が判らないから一人だけ浮いた存在になつた。今月は勉強会の参加者が少ないので参加した。
三里塚闘争の回顧話ではなく共産主義を巡る有意義な話題になつた。私は、トロツキーの永久革命論は平時には悪い印象を与へるからロシア革命の直後に続けてゐれば世界革命ができたといふ内容だといふことを強調したほうがよいと述べた。
共産党は政権を握ると急に駄目になるから、政権は一般人に任せ共産党は軍隊を握るのと政権に対する指導に専念すべきだと述べた。
共産党が軍隊を握ることについて第四インターの方から疑問が出されたが、軍隊は外国の侵略を防ぐだめであり、国内を弾圧するためではないといふことを述べた。共産党は沢山の犠牲を出して武力で勝利したのだから軍隊は認めるべきだ。軍隊があるのに命令ではなく指導に留める。その姿勢は国民から支持されよう。

二月一日(金)「三里塚闘争に勝利してゐればこれほど醜い日本にはならなかつた」
プラザ合意以降の日本は、海外旅行や留学で世の中が破壊された。留学と言へば聞こへはよいが、インターネツトの時代に海外まで行つてまで学ぶことは少ない。留学といふ名の娯楽及びアジア人西洋化工作である。
プラザ合意の前に、当時の感覚でいふと上の下の収入といつてもよい自営会社の社長が始めてハワイに行つて、西洋風呂は水面の高さが低いから排水口を足で押さへたりタオルを突つ込んだといふ話をした。洋式トイレはどつち向きに座つたらよいのかといふ話もあつた。当時はサラリーマンは海外には行けない時代だつた。
プラザ合意の後に或るアメリカ人が、今後は海外旅行の影響で日本社会は大きく変はるだらうと予想した。まさかここまで変はるとは思はなかつた。そして変化はほとんど悪い方向に向つた。
成田空港の多数の乗降客を見ると成田空港は作るべきではなかつたとつくづく思ふ。

二月二日(土)「始末記」
事件の後に埼玉県内の大宮、熊谷で行はれた裁判では三千六百十八人(逮捕三百八十人、自首三千二百三十八人)のうち、田代栄助など七名が死刑(うち欠席裁判は二名)になつた。残りは重罪、軽罪、罰金科料、釈放であつた。長野県内では五百二十六件、群馬県内では三百二十八件であつた。
死刑が少ないのは予想外だが、これを「西洋式の近代裁判の結果だ」と考へてはいけない。百姓一揆も首謀者が打ち首になることはあつたが参加者全体が厳しく罰せられることはなかつた(「二百三十二、江戸時代の百姓一揆を学び悪代官野田を切腹させよう」へ) 。
社会は長い歴史を経て永続可能となるし、長い歴史どころが短期間のうちに堕落する。或いは既得権勢力により偏向する。そのことを踏まへて死刑者が少なかつたのは百姓一揆の長い歴史によるものだ、と考へなければいけない。さうしないと未来に良い世の中は作れない。戦前の軍部や戦後のマスコミ、政治屋、ニセ学者のような醜い連中が出現するためである。(完)


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