二百三十二、江戸時代の百姓一揆を学び悪代官野田を切腹させよう

平成二十四年
一月十五日(日)「江戸時代の百姓一揆」
江戸時代は暗黒の時代だつたと思つてゐる人は多い。例へば将軍に直訴をしたら死罪だと思はれてゐる。しかし実際は違つてゐた。直訴は可能だつた。だから将軍が外出すると直訴が幾つもあつた。
逃散も合法だつた。代官、領主の不合理を理由とした逃散は法令で百姓を勝手に戻せなかつた。代官、領主が年貢を高額にしたときは、地域の平均の年貢を納めれば逃散が可能だつた。
それに比べて今はだうか。菅、野田と悪代官が二代続いた。現代の日本は民主主義によるから本来は選挙で民主党拝米新自由主義派を引き摺り降ろすべきだ。しかし二人の悪代官が民主主義を破壊した。吾々は百姓一揆に学び野田を切腹に追ひ込むべきだ。

一月十七日(火)「保坂智氏の著書」
保坂智氏の著書「百姓一揆とその作法」を見てみよう。
・直訴は受け入れられ、ただちに将軍(大御所)自ら吟味を行い、その場で採決している。百姓の主張に理があると認められた場合は、代官が切腹、あるいは職を奪われるなどの処分を受けている。一方、百姓らの主張が非とされた場合には、百姓が入牢させられている。
・家康は、鷹狩りの場で百姓らが直目安を提出することを待っていたのである。直目安を提出する場は、鷹狩りに限られたのではない。増上寺参詣に出た家光へ直目安が提出されたことは先にみた。日光社参という将軍が長期に旅する時は、直目安の格好の舞台であった。

本来は代官、領主に訴へるのが正式の手続きである。しかし代官、領主に非分のある場合と人質を取られた場合は直目安が認められてゐた。
次に逃散を見てみよう。
・鎌倉幕府は関東御成敗式目において、年貢皆済後の百姓の逃散を認めていた。
・鎌倉幕府の後継者であることを辞任する江戸幕府は、鎌倉幕府の規定を踏襲していたのである。

ここで現代の人々は領主と農民の力関係の均衡に注目する必要がある。逃散は認められるが逃散百姓に宿を貸すことは禁じられてゐた。百姓と領主の双方が均衡するやう配慮されてゐる。だから労働運動も戦後の労働組合法で認められたのではない。鎌倉時代からの伝統と考へるべきだ。 しかし江戸時代も中期になると均衡が崩れる。

一月十八日(水)「逃散禁止令」
一七四二年に幕府は逃散を禁止した。これ以降、農民運動は強訴の形式を取る。保坂氏は一八一一年と一八二五年の一揆を詳細に調べ、
・強訴形式をとる一揆には、打ちこわしは付き物
・ろくすつぽ訴願せず打ちこわし自体を目的とする行為を、一揆の作法にはずれるととらへる
・違法だがやむをえない
と分析する。そして次のやうに結論付けた。
百姓一揆側にも百姓たちのやむをえない行為であると人々を納得させるだけの訴の内容と、それにふさわしい組織、行動様式が求められることになる。


一月二十九日(日)「百姓一揆と義民の研究」
保坂氏の別の著書「百姓一揆と義民の研究」を見てみよう。それまでの百姓一揆は領主や幕府に請願するものであつた。ところが明治維新で様相が一変した。
維新政府は百姓を否定して、それを「農」という新たな身分とした。さらに地租改正に代表されるように、維新政府の急激な近代化政策は農民に負担をかけるかたちで進行し、農民経営の破綻を無視して強行された。それは百姓が年貢を上納するかわりに、領主は百姓の成立を保障するという仁政思想の解体である。


野田のやり方は維新政府と変はらない。消費税改正で倒産企業は続出し、失業者や非正規雇用が街中にあふれよう。野田が選挙公約に違背して消費税に取り付かれるなら、国民はそうなる前に対維新政府式の一揆を起こすしかなくなる。維新政府はあまりの反発に驚き地租を地価の100分の3から100分の2.5に下げた。地価の100分の3といふのは江戸時代の年貢より高かつた。
民主主義がよいのか、江戸時代式の一揆がよいのか、明治時代の一揆がよいのか、消費税を下げるのがよいのか、野田は胸に手を当てて考へるべきだ。その前に選挙公約に違背してよいのかどうかを考へるべきだ。

二月十一日(土)「歴史学者はマルクス史観や西洋史観をやめよ」
保坂氏の著書以外も、一揆に関係した書籍を十冊以上調べた。しかし役に立つものは少ない。理由はマルクス史観や西洋史観に立つた本が多い。ここで峰岸純夫氏の「中世社会の一揆と宗教」のはしがきを見てみよう。
・若いときに私たちの心を捉えたマルクスの「すべての歴史は階級闘争の歴史である」(共産党宣言)という章句がある。しかし、この章句は階級闘争と革命を鼓舞する政治的立場から発言されたもので、具体的な歴史研究の場において適用しようとするとき、かなり吟味を要するものと私は次第に考えるようになってきた。
・人類・民族の歴史が変化・発展する要因は必ずしも階級関係・階級闘争をもって一元化することは出来ず、共同体間や地域間、ひいては民族・宗教間の対立、あるいは自然と人間の対立なども重要な要素になるのではないか、そういった点で、階級関係・階級闘争のある程度の相対化が必要と考えている。
・歴史の発展ということであるが、生産力の発達によって既往の社会体制との矛盾を生じ、社会変革(革命)が提起されるというマルクス主義の命題は大筋で承認できるものとしても、人類史が常に単系列の右肩上がりの発展線上に位置づいていたかというとそうではない。進歩もあれば退歩もありジグザグな過程をたどっているが、歴史研究は必ずしもその点を直視しないで発展の要素のみを追いかけ過ぎてきたのではないか、とりわけ中世史研究にその問題点が感じられる。

まつたく同感である。その時代を生きた人達の観点で事実を述べることが重用である。

二月十二日(日)「三つの断層」
一揆の本を読んでゐて気が付いたことがある。初期の鎌倉時代とそれ以降との歴史の断層である。私は末法思想と鎌倉仏教の出現が原因と見るが、鎌倉幕府の権力巨大化が原因かも知れない。
戦国時代と安土時代の間にも断層がある。鉄砲と天主教が入つたためであらう。
実はもう一つ断層がある。明治維新である。これで世の中が一変した。先の敗戦はもし人類が滅びないとすれば後世の人々から断層とは呼ばれないだらう。戦前も議会や普通選挙があつたためだ。
日本史の研究は、西洋式に中世、近世、近代と分けるのではなく、三つの断層で考へるべきだ。

二月十八日(土)「昭和40年代はマルクス史観もそれほど悪くはなかつた」
昭和49年に出版された「日本民衆の歴史4『百姓一揆と打ちこわし』」は典型的なマルクス史観である。だから冒頭の「『日本民衆の歴史』編修にあたって」は「日本歴史のそれぞれの時代に、勤労者として生き、搾取や抑圧とたたかい、そうして社会発展の真の推進力の役割をはたしてきた日本の民衆・日本の人民のあゆみを、現代歴史学の成果にもとづいて、ひとつの新しい通史としてえがき、国民の歴史意識の形成、とりわけ歴史教育の前進に貢献すること、これが本書の目的である。」で始まる。
この書籍は三省堂から出版され、執筆者も早稲田、東京、広島、一橋、法政の教授、助教授、講師が担当し、内容も良質である。むろんマルクス史観で書かれたものだから次のやうな例がある。郡上八幡で年貢の減免を藩に献策した家老遠藤杢之助を反対派が暗殺しようとし、うわさを聞いた農民が城下町に押しかける騒ぎになつた。これについて
・杢之助は、たしかに陳述の最初の部分で、重い年貢負担をしている農民の苦しみはみるに忍びない、という意味のことを述べている。
・かれが年貢を軽くせよと主張するのは、農民が重い年貢負担に反発して一揆をおこし、それが幕府に知れたならば、藩主遠藤家は改易あるいは減封になるかもしれない、そうなれば自分たちも浪人となってしまう、そのことだけは避けなければならないという理由からなのである。

この部分を作品に付属した包み紙だと思へば、中身は良質である。当時は資本主義と社会主義が世界を二分し、社会主義の望みもあつた。だから社会党や共産党にも良質な人たちが味方になつた。三省堂も発行者になつた。
その後、ソ連の崩壊があり左翼崩れといふ珍妙な連中に変化した。彼らの本質は拝米新自由主義である。その行き着く先が菅直人、野田、前原、仙谷による消費税増税騒ぎである。

二月十九日(日)「西洋史観が諸悪の根源」
昭和60年あたりからマルクス史観は変になる。社会主義の可能性がなくなり、国民に良質の著書を提供して社会主義を目指さうといふ意欲を喪失したとも考へられるが、それより大きいのは資本主義者にもマルクス主義者にも英米が正しいと思ひ込んだ人達の増大である。
ここでさうなる前の模範として、昭和49年に出版された「日本の歴史9『鎌倉時代』」(著者大山恭平、発行小学館)を見てみよう。
・かつて『平家物語』は歴史としてあつかわれた。しかし明治になって、近代的な学問の方法が確立するにつれて『平家物語』が歴史研究の第一線からしりぞけられ、もっぱら国語国文学の分析対象としてあつかわれるようになっていった。
・いつぞやテレビが吉川英治原作の「新・平家物語」を放映したことがある。これを楽しみながらみていた多くの日本人は、これがテレビのドラマであり、そこには多くの虚構があることをとうぜん承知しながら、それでもなお、テレビの「新・平家物語」を歴史そのものだと思い、画面にうつる映像を通じて八百年以前の歴史そのものにふれえたことで満足していたのである。

大山恭平氏は結論として
・『平家物語』を文学作品としてのみあつかうのではなく、広い意味での歴史の作品として評価することもたいせつである。普通の日本人はこれを長い間歴史だと思いこみ、これを通じて日本の中世の成立を理解してきたのだから、そのことをふまえて『平家物語』が源平内乱をどのような歴史として描こうとしたのかを、学問の問題として検討してみなければならないと思う。
まつたく同感である。日本人の歴史観が米英から見たものに変化してしまつた。現在において社会学者に求められるのは大山恭平氏のやうな見方である。ここで大山氏は『平家物語』が次の2つで史実と違ふと指摘する。
・(頼朝が挙兵をしぶるので文覚が院宣をもらつてくるといふ筋書に対して)以仁王の令旨によって挙兵したのであって、後白河法皇の院宣は事実に反する。
・(平重盛の次男資盛が摂政基房に下馬の例をとらず引きずり降ろされ、清盛が立腹して仕返ししたのに対して)狼藉におよんだのは清盛でなくして、重盛のほうである。
この2つの相違は、最近二十年くらいの社会学者のいふ「平清盛はアメリカxxxx大学yyyy教授の主張するzzzzニズムであり」といふ類と比べると、はるかに史実を伝へ国民の役に立つてゐることを我々は感じることができる。

二月二十日(月)「民主主義と強訴は共存する」
民主主義と強訴は共存しないと多くの国民は思つてゐる。強訴をせずに選挙で投票すべきだと。しかし個別の問題は大きな争点に隠れ選挙では無視される。だから民主主義と強訴は共存する。
現代のデモ行進は江戸時代の強訴に当るが、行儀がよくなりすぎた。マスコミが報道してくれれば効果があるが、マスコミは参加者が二十人くらいのものでも死刑廃止などは報道するくせに、非正規雇用など新聞社にも都合の悪いものは数百人が参加しても無視する。だから読者は二十人以上の集会やデモは死刑廃止しかないのかと思つてしまふ。記事を書かないのはかまわない。しかし偏向して小さな集会を取り上げるのはやめるべきだ。

二月二十一日(火)「許される違法」
マスコミの偏向は、逃散を禁止した幕府と同じだ。或いは明治政府と同じだ。国民の支持を受けながら交通を妨害したり経済を妨害する強訴を皆で工夫しようではないか。昭和55年あたりまでは総評も同盟もやつてきたことである。
或いは学生運動が違法なところはあつてもやつてきたことである。その前は労組もやつてきた。例へばピケを張つて入場者を妨害するのは本来は違法である。トラツクの出入りを妨害するのも違法である。団交で経営者を皆で取り囲んで長時間出られないやうにするのも違法である。しかし国民の支持があるのでこれらをやつてきた。
もちろん経営側も対抗してくる。数年前に道を歩いてゐたらオートバイ小売店の倒産事件の労働争議に遭遇した。全国一般南部、全統一などの赤旗が多数掲げられてゐた。たまたま直後に亀戸中央公園で国労団結まつりがあり闘争団がゐたので話をした。翌年再び同じ道を歩くと赤旗は掲げられてゐたが人がおらず同じ建物の横にある二階入口に暴力団事務所の看板が掲げられてゐた。
暴力団が出てきたときは法的処置をとり組合旗だけ残して退散するなど手立てが必要である。

二月二十二日(水)「最近の実例」
品川駅前のKホテルは風格のある建物だつた。しかも黒字営業だつた。ところが突然アメリカのハゲタカファンドが絡んで、廃業して土地を売却することになつた。そして労働組合の自主営業が始まつた。新聞やテレビでも大きく報道された。
裁判の仮処分で会社側の主張が認められた。組合は多人数を動員して入口に陣取つた。会社側の雇つたガードマン約二十人と警視庁機動隊約五十人が来た。予定では1回目は我々が押し戻し、休憩ののち2回目で突入される筈だつた。しかし1回目で警察は押し戻される振りをして横から突入しあつけなく終はつた。さすがプロだと皆で感心した。逮捕者が出ず、けが人もなくてよかつた。
あのとき私にも前夜にKホテルに泊り込むやう連絡が来たが、労働相談の当番日だつた。組合事務所に着替へなど持つて来ないから翌日の早朝に行つた。既にピケ隊は配置が完了したので私は路上から応援した。路上にも大勢応援がゐた。テレビカメラや大勢の報道陣も来た。
後日、単産の大会に連合元会長の笹森氏が来て、あの争議を絶賛してくれた。笹森氏は東電労組の出身だが、大企業労組も以前は総評も同盟もあの程度の争議は行つた。最近の若い人は争議を知らないと心配して居られた。

二月二十三日(木)「労働組合が既得権化を防ぐには」
初期の強訴は名主や村役人などが主導して領主と交渉した。後に村組織が既得権化すると、普通の百姓たちが代表者を決めず円形に名前を書いて交渉した。強訴の組織は目的を果たすと解散した。
今の労組はだうだらうか。大企業や公務員など必要のないところに作るから既得権化し、中小との格差の平衡に役立たない。本来、大企業で労働運動の必要のない人たちは自然に抜けて、必要な人たちが加入しなくてはいけなかつた。
日本人は民主主義を誤解してゐる。正しい政治をしようといふ意志を持つた人たちが多数決をすれば民主主義である。自己利益のために多数決をするのは民主主義ではない。労働組合も同じである。
労働運動は憲法や労働組合法で認められたものではない。江戸時代からの強訴の伝統を持つ。団体交渉も、門前で騒がれるのと交渉するのとどちらがよいかは経営側も明らかである。決して法律に書かれたから行ふのではない。
中小、未組織、非正規、失業者の運動は社会のためである。少子化が問題化した今こそ、労働運動の参加者はそのことを自覚する必要がある。(完)


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