三千三百三十四 物語(小組織)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
十月十七日(土)
はじめに
或る宗派は、日本中を信徒にする勢ひだった。実際には無理なので、昭和四十年に目標を三分の一に下げた。残りのうちの半分(全体からみれば三分の一)は理解者、残り(全体からみれば、同じく三分の一)は反対しない人になったときが布教達成だとした。
これは、インドの古事、舎衛の三億に因んだものだ。古代インドで、釈尊を見た人が三分の一、釈尊の存在や教へを聞いた人も三分の一、残りは見たり聞いたりしなかった人たちだった。
三分の一ならできない数字ではない、と発表した時は思はれた。ところが、実際には出来なかった。そればかりか、信徒数が2%に激減する事態になった。そのため、富士宮駅の団体専用ホームは廃止され、品川駅の団体待合所が廃止になった。団体バス会社の副社長が、自殺する騒ぎも起きた。
日本の神仏学の為、これまでも此の問題を取り上げたが、言ひ足りない点があるため、永禅和尚、良寛和尚、石原莞爾、の三人で話し合った。ここで、宗教の語は西洋の影響を受けるので使はず、神仏学とした。
第一章 小組織と利己主義
日本の陸軍と同じで、小さな組織が急に大きくなった為に、問題が起きたことについては、あの宗派が布教完成に失敗した理由で話した。
今回は、大きくなる前の極めて小さな集団だった為の問題を話した。まづ、他の宗派が、此の宗派の教義を盗んだ、と書かれた古文書が幾つもある。
本来、自分たちの教義を他宗が使ってくれたなら喜ぶべきなのに、盗んだ、は酷い。弱小組織の欠点だ。永禅和尚は、自身が所属する律宗が弱小宗派なので、思ひ当たることが多いやうだった。
ここで石原莞爾が残念さうな顔をして、実は宗祖自身もこの表現を用ゐた、と述べた。報恩抄には
善無畏・弘法・慈覚・智証等は(中略)法の盗人
また、法華経題目抄では
法師と云う名字をぬすめる盗人なり
同じく同抄には
近代の華厳・真言等此の義を盗み取りて自宗の骨髄とせり
尤も、他宗も同じだった。種種御振舞御書に
天台大師を盗人と書いた状は顕密二教論にあり
最初は、あの教祖の宗団が弱小だったが、既成宗団も同じだった。宗派を学派とせず、排他集団とした醜い争ひだった。しかし、鎌倉時代までの宗派は、奈良仏法や天台宗を含めて、弱小集団だった。これが結論になった。
第二章 小組織から出た嘘
小組織は、ばらつきが大きい。統計で云ふなら、標準偏差が大きい。これは、母集団が極めて少ない為だ。
だからあの宗派は、開創まもなくに、後継争ひが起きて疲弊した。江戸時代には、京都要法寺出身の貫首が続き、造仏が行はれた。それを解消するためとは云へ、日寛が無理な教義を展開した。あの宗派側に立てば、日辰の教義に対抗する為だ、となるが、あの宗派は歴代貫首無謬説を立てて、それさへ云はない。いづれにせよ、変な教義なので幕府に弾圧される虞があり、貫首のみが伝へることになったが、これでは仏法破壊だ。
駄目な連中が現れた時代は、造仏時代ではない。あのときは、要法寺から優秀な人が来た。尤も、来たうちの最初のほうは優秀だったが、最後のほうはさうでもなかった、と云はれる。
駄目な連中とは、戒壇の板曼荼羅を偽作した連中、戒壇堂に掲げるものなのにすべての根源とした連中、貫首の云ふことはすべて正しいとした連中だ。これらは、小組織から出た嘘だ。
第三章 布教達成の為には
布教達成の為には、
一、貫首は権威に徹し、権力は宗務総監に分散する
二、戒壇本尊は、戒壇に掲げる一機一縁の本尊であり、すべての根本の考へを放棄した上で、後世の偽作を認める
三、日寛の著書は、日辰への反論の為の緊急用であり、日辰より前に戻る
以上で意見が一致した。永禅和尚が、緊急と云へば、今は末法から抜けたことを認めて、三学に戻るべきだ、と追加した。良寛和尚と石原は、頷いた。
慢心と既得権こそ障害と見る分析も正鵠を得る(終)
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