三千二百三十八(うた)短編物語(あの宗派が布教完成に失敗した理由)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月十七日(水)
第一部 日蓮せい宗
永禅和尚が、ミャンマーから瞑想専門僧が来日した時にまで妨害に来たので、その人は罪業を増やしたのではないか、と心配した。日蓮せい宗は、信徒団体と別れたため、人数が激減した。穴埋めのために、無理な布教を上から押し付けられたのが、原因でせう。
石原が、あの宗派の読み方はそれが正しいのか、と質問した。そして三人は、AIを観た。
AIがAIに訊くパソコンを製造したのもまたAIに
AIによると
ご指摘の通り、創価学会の第2代会長である戸田城聖氏の講演映像や録音(1950年代のもの)の中には、日蓮正宗を「にちれんせいしゅう」と発音しているものが実際に存在します。(中略)背景には、当時の時代背景や言語習慣による以下の理由が考えられます。
1. 「正」の慣用的な読み方(此処の括弧内は差別用語なので略)
・昭和中期以前、特に明治生まれの世代(戸田氏は1900年生まれ)の間では、文字の読み間違いや慣用的な発音が定着していることがよくありました。「正(しょう)」を「せい」と読んでしまうケースです(例:「正月」を「せいぐわつ」と言ったり、(以下略)
石原が「立正大学の教授で有名な人も、にちれんせいしゅうと動画で云っていたが」と再質問すると
はい、立正大学の著名な教授(日蓮宗の学僧など)が動画で「にちれんせいしゅう」と言っているケースも実際にあります。
先程の戸田さんと同じ、昭和中期以前の時代背景を宣べたあと
3. 他宗派(日蓮宗)側からの通称・呼称の歴史
(前略)日蓮宗の古い世代の僧侶たちの間では、(中略)文字の通り「せいしゅう」と俗称・通称として呼んでいた、あるいはそのように聞き取っていた歴史的な口頭伝承の側面もあります。
なるほど、と皆が頷いた。
第二部 性格が悪い二宗
せい宗は、日本中を布教する勢ひだったのに、今では十数万人に激減した。その原因は何かを調べることは、日本の神仏信仰史の為になる。良寛和尚が、かう述べた。和尚には、仏法が多数に分かれたことを嘆く詩がある。
あの宗派は性格が悪いから、と誰かが答へ、身延を総本山とする宗派と、あの宗派だけ、性格が悪い、になった。石原は、国柱会も智学先生が亡くなったあと、三つまたは四つに分裂した、と云ひさうになったが止めた。戦後に国難の危機がなくなり、あの信仰とは縁を切ったからだった。だからお墓は、神道式との折衷だ。神道は墓石の上部が尖る。石原は墳丘型だ。
二つの宗派の性格が悪い理由は、身延は寺院数が一番多い自負がある。せい宗はかつて信徒数が日本一だった。真宗の各派を合はせると更に多いが、墓がある家を単純合計したのと、活動家の数では、まったく異なる。
寺の数信徒の数に直下なる開祖独占慢心を呼ぶ
第三部 大組織になっても、少数派のやり方だった
石原には、陸軍と日本が、大きくなっても少数派のやり方で失敗した苦い体験があった。西洋列強から見れば、日本は泡沫のやうな存在で、陸軍はその中でも小さな組織だった。それが日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、国際連盟の常任理事国になった。このとき日本以外は、イギリス、フランス、イタリア、ドイツだった。
だから石原は、少数派のやり方で大組織になったことを挙げた。宗派がさうだし、信徒団体もさうだった。新本堂を作る時に、偽作だとして、訴訟が起きた。あのとき、偽作の可能性を考慮して、此れまで科学が未発展で分からないことがあった、此れからも科学の結果を活用したい、とする発表文を用意した上で、筆跡鑑定と放射性同位元素測定をすればよかった。
結果は、河辺メモのとほりになっただらう。そこで、用意した発表文を読み上げ、更に発展ができた。かう云ふ発想は、自由な宗風ではないと出来ない。言論出版問題の対応も同じだった。日本中が注目しているのだから、大きく伸びる最後の好機だった。
永禅和尚と良寛和尚は、自身が組織とは正反対だったため、なるほどと感心した。
弱小は急に大きくなるときに変はるを要す気付かずと 西洋列強 露中には共産党に 日本には陸軍そして自民党にも
反歌
慢心と拡大による恩恵と意見抑圧既得権維持
第四部 法華経の成立過程
あの開祖が法華経に傾倒したのは、釈尊が説いた、と信じられた時代だった為だ。とは云へ、江戸時代後期以降は、西洋列強が世界中を植民地にしたので、鎌倉時代と酷似してゐた。時代差を超越した、と云へる。別の云ひ方をすれば、江戸時代末期から明治時代までの大乗非仏説を超越した。
昭和二十年の終戦以降、状況は変はった。それでも昭和三十七年の東京オリンピック辺りまでは、米英仏に比べて経済格差が大きかったので、布教の余地はあった。その後は、もはや非常事態ではないのに、非常用の宗旨を実行するので、性格が悪くなる。
もう一つ、法華経は、第二品から第九品までが、最初に作られた。百年から二百年後に、第一品と、第十品から第二十二品が追加された。更に五十年後に、第二十三品 から第二十八品が追加された。
つまり、あの宗派が最も重要だとする十六番目の如来寿量品は、後から追加された。最重要が、最初は無かったと云ふことは、重要ではない。
後の世に追加をすれば初めからその時までの人たちを無視
もう一つは、開祖が龍ノ口法難の前までは、法華経流布だけが目的だった。しかしその以後は、如来寿量品の文底を云ひ始めた。龍ノ口法難の影響を、精神科医、心理学者とともに精査する必要がある。開祖が影響を受けたこと自体は、悪くない。亡国の危機には、さう云ふ人が必要だ。しかし、平時にはどうなのか。
第五部 三学と三毒の無視
大乗仏法は、三学を遵守し、細分して六波羅蜜とした。三毒を克服することも重視したが、煩悩即菩提だとか、三毒は空だとして、三毒を無力化してしまった。
あの開祖の場合は更に、せい宗と身延山のどちらも、三学についても題目に含まれる、と無力化してしまった。
これが、瞑想会にまで来て妨害するやうな、性格の悪さの原因だらう。三人は頷いた。
三学に依りて修行へ三毒を越えて輪廻は上へ行き 神々により助けも揃ふ
反歌
大乗はまづ三毒を無力化し開祖三学これをも無視へ(終)
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