三千三百十三(うた)短編物語「AI禅問答」
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
九月十六日(水)
第一章 禅問答が話題に
石原莞爾が良寛和尚に、禅問答とはどんなものか質問した。しかし良寛和尚は、分からないと云ふ。その理由は、曹洞宗が禅問答をしない為だった。
道元和尚は、日本では臨済宗を修行した。唐土に到着の後も、天童寺で臨済宗の僧が住持で修行をしたが、まもなく遷化し、次の住持は曹洞宗だった。
そして日本に持ち帰ったのは、禅問答をしない曹洞宗の教義だった。

第二章 試しの禅問答
良寛和尚と石原が、試しに禅問答をした。石原が手を打ち、右手が鳴ったか左手が鳴ったか、と尋ねた。良寛和尚は瞬時に、両手が鳴ったのでござる、どちらの手も鳴ってはゐないのでござる、左手と思ったときは右手右手と思ったときは左手が鳴ったのでござる、両手が正解ではないのなら両手ではないほうの手が鳴ったのでござる、正解はないのでござる、正解はないと云ふ正解もないのでござる、ござるでござる、と答へた。
その淀みのない速さに、石原は感心した。最後の「ござるでござる」は、場を和ませる為だ。世間で、良寛和尚は愚だと云ふ者がゐるが、大間違ひで、良寛和尚ほど賢い僧は、日本中国インドを見渡しても、少ないだらう。

第三章 永禅和尚の提唱
永禅和尚は、南伝仏法への造詣が深い。一方の北伝では、大乗以外を蔑称で呼ぶことが多かった。とは云へ、これは南伝と無関係ではない。南伝は、北伝の中の一つの派と同じだ。
そのため、昭和二十五(1950)年の第一回世界仏教者会議がスリランカで開かれ、蔑称を使はないことになった。昭和二十七(1952)年の第二回会議は日本で開催され、此処でも使はないことが、再確認された。
通常は、一回決めれば有効だ。それを再度確認するのは、開催国の日本で守られないからではないのか。そして、今でも守らない団体が二つある。全国良寛会と、Nせい宗だ。彼らにお灸を据える禅問答を作ったらどうか。
良寛和尚を含めて、皆が賛成した。お灸とは、病気を治すためのものだ。本人たちの為になるものだ。

第四章 禅問答
「門前の小僧習はぬ経を読む、門内の全国良寛会、習っても蔑称を用ゐるのはなぜか」。早速、一つ出来た。
「賢き事に気付かずに、一日ぼんやり過ごすのみ、こんな万嘘をなぜ信じるのか」。もう一つ出来た。
「偽作の板は、本物か偽物か」。これは解説が必要だ。戒壇と書いてあるなら、戒壇に祀るものだ。それをすべての大本だと称するのは偽作だが、その偽作は、河辺メモで本物か偽物か。
「妻帯の非僧非俗は、僧侶か非僧か」。これなぞ、答へは決まってゐるが。
「非僧は貫首になれるか。非僧の書いた紙は、拝んでご利益があるか」
「元々無い血脈は、切れたか繋がってゐるか」。XX寺と北山本門寺は、どちらも後継争ひが起きた。起きたこと自体、血脈は無かったからだ。その血脈が、切れたか繋がってゐるかで、僧侶三分の一宗外追放事件が起きた。

第五章 二分割睡眠
「丑寅以外に、丑寅勤行を行ふのはなぜか」。これは難しい。江戸時代までは、日没とともに就寝した。
しかしこれだと、冬は十二時頃に目が覚める。そして二時間ほど、暖炉の火を灯りに過ごしたあと、再び就寝し、夜明けとともに起きた。
夏は、日没とともに就寝し、明け方に起きる。睡眠時間が足りないときは、昼寝をした。炎天下の作業を避ける意味もあった。
お寺の丑寅勤行を不定時法なので、冬は午前四時頃、夏は午前二時頃行った。それなのに、今は午前二時に行ふ。夏はよいが、冬は丑寅とは異なる。
なを、北山本門寺、西山本門寺、京都要法寺なども、丑寅勤行を行ってゐたが、昭和十六年にN宗と合同の時に、身延山に合はせて晨朝勤行になった。
照明の無い時代に生きた、二人の和尚にとっては当たり前の話だが、石原には初耳だった。
照明の無き時代には日と共に起きて夕暮れ眠るとも 冬は長き夜途中に起きる

反歌  夏の日は暑さを避けて昼寝あり朝と夕方稼ぎの盛り(終)

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