三千三百十五(朗詠のうた)短編物語「蔑称表現を批判」
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
九月二十日(日)
第一章 渡航はご禁制
永禅和尚は南伝仏法に詳しい。唐土に渡航し南伝の比丘に会ったか、或いは唐土から更に先の暹羅(二文字でシャム)へ渡ったのではないかと云はれる。しかし江戸時代に渡航することはご禁制だったので、渡航が自由になった現代でも、明らかにしなかった。それは良寛和尚も同じだ。
渡航の事は、自筆の資料にないので、AIでも復元できない事情があった。或る人が永禅和尚に、今は渡航できますが、と訊いたところ、旅券を持たないとやはり違法だ、と答へた。
第二章 蔑称表現
永禅和尚は、蔑称表現が天竺で用ゐられたことを、信用できなかった。そこでAIに訊いた。
インドで広く用いられたか
当時のインドにおいて、広く用いられたわけではないと考えられています。
1. 自称する人が誰もいなかった
ヒーナ(hīna)には、小さいだけでなく、「劣った、卑しい、見捨てられた」という強い蔑称の意味が含まれています。そのため、大乗仏教以外の伝統的な部派(説一切有部や上座部など)の仏教徒たちが、自らを呼ぶことは絶対にありませんでした。
2. インドの文献では別の表現が一般的だった
大乗仏教のサンスクリット経典のなかでも、相手を批判する文脈以外では、この言葉はそれほど多用されていません。伝統的な部派を指すときは、以下のような言葉が使われていました。
シュラーヴァカ・ヤーナ(声聞乗:教えを聞く者の乗り物)
プラティエーカーブッダ・ヤーナ(独覚乗:一人の力で悟る者の乗り物)
3. 「広く定着した」のは中国経由の近代以降
この言葉が大乗の対義語として広く一般に定着したのは、仏教が中国に渡ってからです。さらに近代に入り、西洋の学者たちが仏教を分類する際にこの言葉を多用したため、世界的に広く知れ渡る結果となりました。
インドでは、大乗僧も戒律を受けたから当然だが
おっしゃる通り、「大乗の僧侶も同じ部派の戒律(具足戒)を受けていた」というのは、当時のインドの仏教界を理解する上で非常に重要な核心です。
1. 「同じお寺」で一緒に暮らしていた
7世紀にインドを訪れた中国の僧・玄奘(げんじょう)の『大唐西域記』などの記録によると、当時のインドでは大乗僧と部派僧が同じ寺院で机を並べて共同生活を送った事が多々ありました。彼らは同じ戒律(具足戒)を守り、同じように出家生活を送る仲間でした。
2. 違いは目指す目標
違いは生活様式ではなく、何を目指すかだけでした。
部派の僧:阿羅漢を目指す
大乗の僧:菩薩を目指す
3. 「ヒーナヤーナ」は書物の中だけの思想
ヒーナヤーナという過激な蔑称は、あくまで大乗経典を書いた一部の理論家たちが、書物の中で使った、理論上の仮想な批判対象に過ぎませんでした。実際のインドの仏教社会は、戒律によって強固に結ばれた一つの空間だったのです。
中国でも、具足戒を受けたが
まさにその通りです。中国の僧侶もまた、インドと全く同じように伝統的な部派仏教の戒律(具足戒)を受けて出家していました。中国仏教は大乗仏教として発展しましたが、制度では部派仏教をそのまま導入・運用しています。
1. 中国に定着した戒律は四分律
中国の出家者が正式な僧侶になるために受けた具足戒は、インドの法蔵部が伝えた四分律(しぶんりつ)です。これが唐代の道宣によって「律宗」として大成されました。
2. だから蔑称は実在の人を指す言葉にならなかった
中国でもインドと同様に、みんな戒律を授かって生活していました。そのため蔑称は、特定の人間や教団を指して使う言葉ではなく、あくまで思想の段階を分類するものでした。
第三章 仏に唾する者ども
AIの回答に、律宗が含まれたので、和尚は一瞬喜んだ。ところで、釈尊が説いた法は初期仏法で、蔑称で呼ぶことは、仏に唾する者どもだ。天に唾するのと同じで、自分に返ってくる。全国良寛会とNせい宗を救ふ方法はないだらうか。和尚の心配が一つ増えた。
喜びのすぐ後に待つ憂ひには仏の力注ぎて超える
唐土の天台和尚は、情報の無かった時代に、膨大な経典の整理を行った。その努力は多とするも、時代が進み、大乗非仏説が現実のものとなった今では、最新情報を併せることも必要だらう。
律宗は戒律を学ぶ学派なので、教義は他の奈良仏法を用ゐる。江戸時代には、律宗と真言宗を併せる流れが生まれた。真言宗は、最新の仏法だから、奈良仏法と最新仏法の組み合はせだ。
永禅和尚は、新しい諺を考へた、「新しきを訪ねて、古きを知る」。
新しの諺なるや新しを訪ね古きを新しに知る(終)
以上でファイル容量は6.5KBだ。ところがAIの回答を除き測定すると、正味2.8KBだ。そこで、続編を作った。
続編 部派仏法にも反省点がある
仏法には、時の経過とともに教義が複雑化する欠点がある。そしてもう一つ、時の経過とともに堕落する欠点もある。初期仏法が部派仏法に変化したときは、アショーカ王の保護と云ふ外因があった。保護自体は仏法を、北伝で中国に伝へ、南伝でスリランカに伝へた。功績は大きいが、複雑化と堕落の副作用があった。
堕落とは、修行僧が阿羅漢を目指すことだけに執着することだ。この反省点から、大乗の教義が現れたとすれば、大乗に落ち度はない。だから、部派と大乗は共存できた。
ところが唐土へ伝はると、戒律は保つものの、教義は大乗のみになった。否、天台和尚の影響ではないか。だから、天竺と唐土に、悪意はない。悪いのは、鑑真和尚が来日したのに、戒律を広めなかった悪僧どもと、今までの戒律を無視した伝教であった。
それ以上に悪いのは、仏法の歴史が明らかになった。更に昭和二十五(1950)年の第一回世界仏教者会議で蔑称を使はないことを決めたのに、それから七十年以上を過ぎてもまだ使ふ、全国良寛会とNせい宗だ。
何時迄も悪き言葉を使ふとき罪は積まれて土の底迄
以上の話を聞き、石原が絶賛した。さすが永禅和尚、相手を思ふ気持ちがあふれてゐる。それに対しNせい宗は、相手の不幸を願ふ気持ちや恨む気持ちに溢れてゐる。これは昭和三十八年辺りから、もはや布教の意義を失ったにも関はらず、つまり末法では無くなったにも関はらず、今までのやり方を変へなかったためだ、と分析した。
全国良寛会も同じで、清貧の時代は、プラザ合意で日本から消えた。そのやうな時代に経済成長の行き過ぎを止めようとするなら、それはそれで正しい。問題は、世界規模の競争下で、どう舵取りをするか。全国良寛会は、いろいろな意見を持つ組織にするべきだ。石原の分析は、正確だった。(終)
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