三千二百六十六(うた)短編物語(AI三人、全国良寛会と鎌倉教祖の末流に反撃)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十二日(水)
第一部 批判だけでは、批判は止まない
全国良寛会が監修し竹村某が著した書籍と、ここ十年で蔑称用語使用を1ミリも改めない宗派を、指摘するだけだと、後日また似たことを繰り返すでせう。石原が云った。
永禅和尚が、あの二団体で活動すると、堕地獄だ、と云ふのはどうか、もちろん冗談だが、と云った。良寛和尚と石原は、少し笑ひ、真顔に戻った。
石原が云ふには、軍事から見ると敵の支配地域を一部占領し、停戦の上で撤退条件として、返還した地域は武装させないのがよい。
永禅和尚は、本当の戦だと戒律に違反するが、言論戦なので賛成、と云った。良寛和尚は、別のことを考へてゐたため、話に付いていけなかった。

第二部 後から増補された経典
南伝経典は、年月の経過とともに複雑化するものの、連続した。後に論蔵として増補される時代も、連続だった。後に、唐土で大乗経典として分類される経典が作られる時代も、連続だった。
しかし、と永禅和尚は云ふ。此の経を誹謗すると頭破七分とするのは、黒では無いが灰色だ。声聞(従来の仏法に従ふ比丘)と、独覚(自分で覚る)と、菩薩(本来は、釈尊の前世。大乗では、他人の為に修行をする者)を、統合して一つにする ことは、限りなく黒に近い灰色だ。
それぞれ理由を挙げた。頭破七分とは、およそ仏法精神とはかけ離れた表現だが、法華経を誹謗しなければよいのだから、黒とまでは云へない。声聞など三つを統合して、新たな乗り物を用意することも、この時までに現れた社会の思想や習慣を統合するものだから、黒とまでは云へない。

第三部 菩薩が現れたのは、何時の時代か
永禅和尚の主張が勝れるのは、ここからだった。初期仏法の時代は、声聞だった。しかしアショーカ王の時代に、修行者は自己の為とともに、周りを救ふ存在になった。このときから、声聞と独覚は、大乗の云ふ菩薩を兼ねるやうになった。
これに対し良寛和尚が、初期仏法の時代が菩薩では無かった理由を尋ねた。永禅和尚は、初期仏法の時代は自己の修行、アショーカ王以降は修行者が在家者に功徳を与へる立場、と答へた。良寛和尚が、その前提として、修行者を供養することは在家者の功徳になる文化を挙げた。
これは正しかった。インドは今でもヒンズー教に、世襲に依る儀式者と、希望してなった修行者がゐる。儀式者へは結婚式や葬儀の対価として、金銭を払ふ。それに対し、修行者へは功徳を積む行為として寄進する。
ここで石原が、明治維新後の日本で、妻帯コスプレ坊主に寄進しても功徳は無いと云ふ事ですな、と云った。一同爆笑した。

第四部 全国良寛会と鎌倉教祖末流への反撃を、忘れた
今回も、有意義な話だった。散会しようとして、全国良寛会と鎌倉教祖末流への反撃を忘れたことに気付いた。そこは仏法好きの三人である。
まづ全国良寛会については、良寛和尚を駄目で失格の和尚、としたいらしい。実際は、江戸時代の墓檀家制度の宗門組織を批判し、唐土まで行った高僧だ。
次に鎌倉教祖末流について、妻帯コスプレ坊主の管長が曼荼羅を書いて、効力があるか。三人の一致した意見だった。ここで石原は、田中智学先生が佐渡始顕の本尊を選定されたやうに、鎌倉教祖直筆のものを印刷すればよいことを云った。妻帯コスプレ坊主の書いたものよりよい。
次に全国良寛会は、各地の良寛会会長が理事に就任してゐることが問題になった。かつての全国良寛会は、それなりに学識のある人が多かった。今は、全国良寛会理事、と云ふ役職だけで満足してゐる。だから、変な本を出版しても、上の言ひなりだ。
鎌倉教祖末流については、石原が生前に信仰した団体が連携した本山とは、鎌倉時代は兄弟寺だったのに、まったく雰囲気が変はってしまったことが批判された。管長の云ふことが絶対とするが、さう云ふ了見だから、信徒団体に逃げられ、弱小集団に戻った。そもそも教祖が亡くなった後に分裂し、あの兄弟寺からも幾つか分裂した。誰かの云ふことが絶対正しいのなら、分裂しなかった。もっと自由な自由な発言を許容しないと、分裂を繰り返す。
三人は、二つの団体が蔑称を使はなくなることが目的なので、この程度で終了させることにした。
穏健が最もよいも 蔑称を使ひ続ける人たちへ一たび批判次に中止め

反歌  世が変はる他宗批判と蔑称と人が求める事を合はせる(終)

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