三千二百六十四(うた)短編物語(東條英機と武藤章、志の無い行動、実現不能な志)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十日(月)
第一部 石原莞爾、精神疲労
石原莞爾が、参謀本部作戦部長から転出したのは、半分は本人の希望だった。この当時、軍の中央は日華事変を巡って、解決派と拡大派と、大多数の中立派に分かれた。石原は、部下の作戦課長武藤章が面従腹背で拡大派だったため、抗争に疲れて自ら転出を希望した。
今から見れば無責任な行動だが、自ら呼び込んだ多田駿が参謀次長、参謀総長は宮様なので、油断したのだらう。石原は、関東軍参謀副長として、周囲から大活躍を期待された。上司の参謀長東條英機は、中立派だった。しかし東條とは性格が合はず、後に辞表を勝手に提出し、帰国してしまった。
陸軍で勝手に離職することは、禁錮か懲役に処罰されるとともに、奪官処分だった。将校の身分を完全喪失し、勲章と功労章をすべて剥奪され、恩給の受給権喪失、公式記録から抹消された。
幸ひ板垣征四郎が陸軍大臣だったため、石原の行動は不問に付された。東條は、さぞ不満だったことだらう。石原は、大洗海岸で静養した。かなり精神が疲労してゐたのだらう。尤も石原の「戦争史大観」によると
昭和十三年夏病気のため辞表を提出した際、上官から辞表は大臣に取次ぐから休暇をとって帰国するよう命ぜられたので軽率な私は予備役編入と信じ、九月一日大洗海岸で暴風雨を聴きながら「昭和維新方略」なる短文を草し(以下略)

この当時、東條は次官に転出したあとで、上司は東條では無かった。

第二部 国柱会、会員激増から微減へ
石原は国柱会の会員なのに、なぜ精神疲労をしたのだらうか。昭和三年頃から、国柱会は会員激増から、微減へと移った。田中智学はこのとき六十七歳。当時の六十七歳は、今の八十歳前後である。例へば漫画サザエさんのお父さんは五十四歳。今見ると、七十歳に見える。
田中智学の演説で、爆発的に会員が増えたが、演説が無くなると、会員は少しづつ減るやうになった。将来への展望が見えなくなったことが、石原の精神に大きく影響した。

第三部 国柱会、新指導者を得る
国柱会はこのあと、分裂へと向かふのだが、その前に新しい指導者を得たとしよう。そして、会員が以前のやうに再び激増を始めたとしよう。石原は、参謀本部作戦部長として見事に仕事をやり遂げ、日華事変を解決した。
多田駿が、陸軍三長官会議で陸相に内定したときに、昭和天皇が反対したのは、復た226事件が起きることを心配してのことだった。
現に、
浅原健三氏は、時の内務大臣海軍大将末次正信氏を訪れ、「南京へ直接出向いて蒋介石氏と話合って事変解決をしようという人もいるが、あなたはどう思うか」と末次氏の意中を尋ねた。末次大将は「それは大変だ。それこそまた東京事件だ(二・二六事件と同様な事件が発生するの意)」と答えた。

石原は
「末次将に非ず。陸軍大将や海軍大将の十人、二十人殺される事ぐらいが何で大変なんだ。(中略)老ぼれて役にもたたない陸海軍の大中将が、二、三十人殺されるだけで、この東亜の大難が救われるなら、それこそ有難いことではないか。

と言った。(石原莞爾(その四)敗戦前後)
日華事変が解決した後なら、多田駿の陸相就任に、昭和天皇が心配されことはなかった。あのときは、多田の代はりに畑俊六が陸相になり、十一ヶ月後に東條英機が陸相になった。そして一年三ヶ月後に、東條内閣が誕生した。
あのとき、多田駿が陸相になってゐたら。日本にとり、運命の選択肢だった。

第四部 志の無い行動、実現不能な志
東條英機は、志の無い男だった。目の前の事務を片付けることしか、能が無い。武藤章も、志の無い男だった。武藤にあるのは、欲だけだった。私欲と公欲の、両方だった。私欲とは陸軍内での出世、公欲とは日本の領土拡大だった。
実現不能な志としては、一部の宗派や信徒団体による、無理な布教であらう。実現可能ならよい。実現不可能なものを、実行してはいけない。
その意味で云ふと、国柱会に会員激増の可能性が無くなった時点で、石原は戦略を変へなくてはいけなかった。尤もこれは、敗戦の後に分かったことだ。この短編物語の作者も、この物語を作る時に気付いた。
文章を書くと新たな気付きあり打鍵とともに社会のために
(終)

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