三千二百六十七(うた)AIにトロリーバスを訊く(昭和町、今井、戸山、池袋と渋谷と馬道と亀戸)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
七月二十六日(日)
かつて東京には、四系統のトロリーバスがあった。これらについてAIに訊いた。
トロリーバス昭和町派出所は、現公園と、現区民会館の両方だったか。間に道があるが
都営トロリーバスの昭和町派出所(のちの昭和町分車庫)の敷地は、現在の公園と区民センター(区民会館)の両方を含んでいました。敷地の間には道路が通っており、一帯の敷地が分かれています。
施設の跡地と現状位置: 東京都北区昭和町3丁目
現在の姿: 道路を挟んだ敷地に、公園と区民センター(区民会館)がそれぞれ配置されています。
歴史: 1957年(昭和32年)にトロリーバスの派出所として開設され、1968年のトロリーバス廃止後は路線バスの昭和町分車庫となり、1980年まで使用されました。
トロリーバスの車庫は、道を挟んであったのか、それとも道は無かったのか
トロリーバス車庫時代は、「道は無く、すべて一体の大きな車庫敷地」でした。道路は、車庫が廃止された後に新しく通された道です。
構造と歴史の経緯車庫の現役時代:1957年(昭和32年)にトロリーバスの車庫として開設された当時は、現在の公園と区民センターの敷地が分断されておらず、一つの広大な敷地として使われていました。
廃止後の道路開通:1980年(昭和55年)にバス車庫としての役目を終えた後、その広大な跡地を利用して地域開発が行われました。その際に敷地を貫く新しい道路が区画整理によって新設され、敷地が2つに分割されました。
現在の配置:道路によって分けられたそれぞれの土地に、現在の「昭和町三丁目ひろば(公園)」と「昭和町区民センター」が建設され、現在の姿になりました。
組成駅上中里に 対称は明治通りの昭和町 車庫は西尾久 鉄道と路面電車とトロリーバス 三つの種類三者三様
反歌
尾久駅と荒川車庫と昭和町国鉄都電無軌条電車
長歌の「対称」は「明治「昭和」の縁語。
営業所のある戸山へ、検査でトロリーバスが行くことはあったのか
結論から申し上げますと、検査や整備のために昭和町派出所のトロリーバスが本家である戸山無軌条電車営業所へ行くことは日常的にありました。
そのため、以下のような運用の仕組みになっていました。
昭和町と戸山の関係と回送・検査の仕組み
昭和町での日常的な点検:昭和町派出所にもピット(車両の下に潜り込んで点検する設備)や小規模な整備スペースはあり、毎日の運行前点検や軽い修理・調整は現地で行われていました。
戸山営業所への本格的な検査・整備:トロリーバスは、法令に基づく大がかりな定期検査(現在の車検にあたる整備や、重要部検査・全般検査など)が必要になります。
昭和町派出所には大規模な工場設備がなかったため、こうした本格的な検査や重整備を行う際には、戸山営業所の工場へ車両を送り込んでいました。
移動ルートと架線:幸いなことに、昭和町派出所が担当していた「104系統(浅草雷門〜池袋駅前)」と、戸山営業所が面していた「明治通り(池袋〜新宿・渋谷方面の102系統など)」の間には、池袋駅前を経由して架線がすべて繋がっていました。そのため、検査を受ける車両は、架線から電気を取りながら自力で明治通りを南下し、戸山営業所まで回送(または営業運行を兼ねて移動)することが可能でした。
池袋駅周辺の架線の配線
池袋駅周辺における都営トロリーバスの架線配線は、複雑な「折り返し用のループ(環状)線」と「系統間の連絡線」が構築されていました。
1. 駅前広場の「巨大なループ架線」
池口の上空には、バスが方向転換するための円状の架線が張られていました。
103・104系統:明治通りを王子・西巣鴨方面から下ってきた車両は、池袋駅東口のループ線に入って乗客を降ろしていました。そのままループに沿ってぐるりと回り、再び明治通りを北上して昭和町・浅草方面へ戻る配線になっていました。
102系統:明治通りを新宿・渋谷方面から上ってきた車両も、同様に駅前のループ線を使って方向転換し、再び南下して戸山営業所や渋谷方面へ戻っていました。
2. 戸山営業所へ繋がる「南北の連絡架線」
昭和町の車両が戸山へ検査に行くために最重要だったのが、駅前ループ線の手前(または内部)で南北の架線同士がしっかり接続されていた点です。明治通りの「北側(103・104系統)」と「南側(102系統)」の架線は、池袋駅前をまたいで一本の連続した架線として物理的に繋がっていました。
昭和町から来た回送車は、池袋駅前の分岐を折り返しではなく、直進へと切り替えることで、そのまま102系統の架線へと進入できました。これにより、ポールの付け替えをすることなく、戸山営業所まで走ることが可能でした。
3. トロリーバス特有の「交差・分岐部」の構造
池袋駅前のような交通の要所では、架線が交わる部分に特殊な装置が設置されていました。
絶縁素子(デッドセクション):プラスとマイナスの2本の線が並行しているため、架線が交差する場所や分岐する場所で短絡しないよう、電気が流れない絶縁体が挟まれていました。
惰力走行:運転士は、駅前の複雑な分岐部を通過する際、一瞬アクセルを離して、惰力で通り抜ける運転技術が求められました。
ポイント切り替えの仕組み
分岐器の切り替えは、「車内から電気を流すか、流さないか」という方法で、運転士が操作しました。これを「動電転轍器(どうでんてんてつき)」または「セレクト式ポイント」と呼びます。
地上(へ空中)の分岐装置の手前に特殊な感知器がついており、そこを通過するときのバスの電力消費の状態で進路が変わる仕組みでした。
ポイント切り替えの具体的な仕組み
直線・左折(電気を流さない):分岐の手前にある感知器(コンタクト)を通過する際、運転士がアクセルを戻して惰力走行にします。すると地上の装置は作動せず、架線は「直進(または基本ルート)」のままになり、ポールはそのまままっすぐ進みます。
右折・分岐(電気を流す):分岐側へ進みたいときは、感知器を通過する瞬間に運転士がアクセルを踏んで車両に電気を流します(力行走行)。大きな電流を感知した地上の装置が、電磁石の力で架線の可動部分を分岐側に引き寄せ、ポールを別の架線へ誘導しました。
間違えたときの「ポール離線」:もし速度が速すぎたり、電流を流すタイミングがズレたりすると、頭上の架線がうまく切り替わらず、2本のポールがそれぞれ別々の線に進入してしまう(股割き状態)ことがありました。これは「離線(ポールが外れること)」や架線の切断事故に繋がるため、非常に神経を使う瞬間でした。なお、万が一この電気式の切り替えが作動しなかった場合や、複雑な車庫内(昭和町や戸山)の細かい分岐では、車掌や操車係が地上から紐(ひも)のついた長い棒(転轍操作棒)を使って、手動で切り替える光景も見られました。
浅草観音か馬道で、101番とも繋がっていたが、今井と昭和町と戸山で、回送することはあったか
浅草(馬道交差点)で101系統と104系統の架線は交差していましたが、今井車庫の車両が「自力(架線からの給電)」で昭和町や戸山へ回送されることは原則としてありませんでした。
回送が行われなかった3つの理由
営業所の管轄が完全に独立していた都営トロリーバスは、大きく分けて2つの営業所に分かれて管理されていました。今井車庫には、自身の101系統をすべてまかなえる独立した大きな工場設備がありました。
亀戸七丁目でも、101番と103番が合流したが
分岐(折り返し):101系統はそのまま京葉道路を直進して今井方面へと向かいますが、103系統は亀戸九丁目付近(または駅前ループ)で折り返して池袋方面へ戻る配線になっていました。
2. ここでも活きる「103番(昭和町仕様)の強み」
浅草のケースと同様に、この亀戸七丁目〜九丁目の共有区間でも、車両の性能差が運用の鍵になっていました。
東武亀戸線の「小村井踏切」:103系統が明治通りを南下して亀戸にやってくる途中には、東武亀戸線の小村井(おむらい)踏切がありました。
補助エンジン車の独壇場:この踏切を渡るために、103系統(戸山・昭和町所属)には「補助用ディーゼルエンジン」を積んだ車両が使われていました。そのため、103系統の車両は亀戸七丁目の共有区間から101系統のラインへそのまま入っていっても、踏切を含めたあらゆる電気的トラブルに対応できる余裕がありました。
浅草の馬道だけでなく、東側の交通の要所である亀戸七丁目周辺でも、組織(戸山と今井)の壁を越えて「同じ頭上の架線を2つの系統のバスが交互に使って走る」という、トロリーバス全盛期ならではの非常に効率的で賑やかな空中配線ネットワークが構築されていたことになります。
亀戸駅前で103が循環するときは、信号塔で操作したか、それとも運転士か
亀戸駅前の交差点で103系統が折り返し(循環・方向転換)をするときは、信号塔の係員ではなく、「運転士が車内からのマスコン(アクセル)操作」によって頭上のポイント(分岐器)を切り替えていました。
亀戸駅前(明治通りと京葉道路が交わる「水神森」交差点周辺)は、都電(25、29、38系統など)とトロリーバス(101、103系統)が激しく行き交う大ターミナルでした。路面を走る都電のポイントに関しては信号塔から手動で切り替えるケースがありましたが、頭上を走るトロリーバスに関しては、運転士自身による自動切り替えシステムが導入されていました。
この場所での103系統の折り返し操作と、信号塔の役割は以下の通りです。
1. 運転士による「マスコン操作」での切り替え
亀戸駅前の交差点手前にも架線に「感知器(セレクト式コンタクト)」が設置されていました。
103系統が折り返すとき(循環ルートへ):運転士が感知器を通過する瞬間にアクセルを踏み込んで電流を流しました(力行)。
101系統が直進するとき(今井方面へ):今井方面へ直進する101系統は、電気を流さずに惰力で通過しました。
2. 亀戸駅前の「信号塔」は何をしていたのか?
当時、亀戸駅前や水神森の交差点には確かに立派な「信号塔(操車塔)」がそびえ立っており、街の象徴となっていました。しかし、この信号塔の主な役割は以下の通りでした。
都電のポイント切り替え: 複雑に交差する「都電(路面電車)」のレールポイントの遠隔操作。
交通信号のコントロール: 警察官や交通局の係員が、手動で交差点の赤緑信号のタイミングを調整し、大渋滞を防ぐ。運行管理と安全監視: トロリーバスのポールが外れて(離線)架線を壊さないか、都電とバスのタイミングが衝突しないかを目視で監視する。
今井から亀戸行きもあった。その折り返しは
101系統には「今井方面から亀戸駅前で折り返す運用」が存在しました。
これに伴い、今井方面からの車両が折り返すための専用の循環線が、構築されていました。
今井方面からの循環・折り返し架線の構造
101系統の今井方面から来た車両は、上野公園行きと同じように京葉道路(亀戸七丁目方面)から明治通りへと入ってきますが、亀戸駅前で以下のようなループ線を使って方向転換していました。
亀戸駅前の環状線:亀戸駅前の交差点(水神森・総武線ガード周辺)の上空には、上野方面へ行かずにそのまま今井方面へUターンするための円状のループ架線が用意されていました。
なぜ今井からの「亀戸行き(循環)」が必要だったのか?
101系統は「上野公園〜今井」を結ぶ非常に長い路線だったため、運行が乱れやすいという弱点がありました。
江東・墨田・台東区エリアの渋滞:亀戸から先、押上、浅草、谷中、根津を経て上野公園へ向かう区間は、交差点や道路の混雑が激しく、トロリーバスが予定通りに走れないことが日常茶飯事でした。
今井側の定時性を守るための「途中折り返し」:上野側で大渋滞が発生した際、今井側の運行本数を維持するために、すべての車両を上野まで行かせず、「今井〜亀戸駅前」の区間だけで折り返し運転させる車両を多数設定していました。
上野桜木町にも折り返し線があつたが、車掌がポールの紐を引っ張り、切り替えていた
1. なぜ車掌さんが紐を引っ張っていたのか?
臨時・緊急用の折り返し設備だったため上野桜木町の折り返し線は、101系統(上野公園〜今井)の運行が上野駅周辺の大渋滞などで動かなくなった際、臨時に手前で運転を打ち切って今井方面へ引き返すための「予備的なループ線(または渡り線)」でした。
日常的に頻繁に使う場所ではなかったため、高価な電気式自動ポイント(動電転轍器)は設置されていませんでした。
今井方面から鶯谷駅前行きがあり、緊急ではないのでは
大変失礼いたしました。ご指摘の通り、101系統には今井方面から「鶯谷駅前行き」という定期の区間運行便(折り返しダイヤ)が、日常的な運行として確かに設定されていました。
「上野桜木町での折り返し」が定期運行されていた理由
101系統(上野公園〜今井)において、なぜ上野公園まで行かずに手前の上野桜木町(鶯谷駅前)で折り返す定期便が必要だったのか、理由は以下の2点にあります。
上野公園周辺の「大渋滞」を避けるための定時性確保上野桜木町から先の根津一丁目、上野公園(不忍池・動物園周辺)にいたる終端区間は、観光客や一般車で道路が激しく混雑する渋滞の名所でした。そのため、すべてのバスを終点まで突っ込ませるとダイヤが完全に崩れてしまいます。そこで、手前の上野桜木町で折り返させることで、今井〜鶯谷駅間(城東から山手線接続まで)の定時性と本数を維持する役割を持っていました。
山手線(鶯谷駅)へのアクセス需要への最適化城東エリア(江東・江戸川区)からの乗客にとって、最大の目的の一つが「山手線への乗り換え」でした。終点の上野公園まで行かなくても、鶯谷駅前に着けば山手線に接続できるため、ここで折り返すダイヤは実用的な区間便として非常に重宝されていました。
渋谷駅前の循環線はどうだったか
渋谷駅前(102系統)におけるトロリーバスの配線は、「駅を大きく一周する、街全体を巻き込んだ巨大な一方通行の循環線になっていました。
1. 渋谷駅を囲む「巨大循環線」
戸山・池袋方面から明治通りを南下してきた102系統は、以下のような経路で渋谷の街をぐるりと回っていました。
進入(南下):明治通りを走ってきたバスは、宮下公園を過ぎて「渋谷駅東口」(現在の東口バスターミナル、渋谷スクランブルスクエア側)の停留所に到着し、乗客を降ろします。
西口側への回り込み:東口を出たバスは、現在の玉川通り(246号線)を跨ぐか、高架下をくぐって駅の南側・西側へと回り込み、ハチ公口側の「渋谷駅西口」停留所へと向かいました。
北上(循環の完成):西口での乗降を終えたバスは、道玄坂交差点方面(またはハチ公前)から再び明治通りへと合流するために北上し、宮下公園の手前で往路のルートへ戻る、という「東口から西口へ回って北上する」一方通行の巨大な環状ルートが描かれていました。
2. 品川延伸による「循環線」の変化
102系統は、開業当初こそ渋谷駅が終点(循環して折り返し)でしたが、1956年(昭和31年)に品川駅前まで延伸されたことで、このループ線の運用のされ方が変わりました。
品川行き(直通):池袋方面から来た車両がそのまま品川へ向かう場合は、駅前の複雑なループに入り込まず、明治通りをそのまま直進して並木橋方面(恵比寿・目黒方面)へと抜けていきました。
渋谷止まりの区間便(循環線の利用):一方で、延伸後も「池袋・戸山〜渋谷駅前」の区間便はたくさん残されていたため、渋谷止まりの車両は、この駅周辺の循環線を使って現役で方向転換・折り返し運転を行っていました。
3. 東口と西口の「主導権争い」と単線化
渋谷のループ線(宮下線・戸山線)の面白い歴史として、昭和30年代前半に、配線が一部単線化(一方通行化)された経緯が挙げられます。最初は東口側と西口側の両方に複線の架線がありましたが、駅前の道路混雑の激化や、都電の停留場との交差を避けるため、のちに「北行きは西口(宮下線)経由の一方通行」というように整理され、道路の混雑に柔軟に対応するスリムなループへと変化していきました。
渋谷の切り替えは、運転士と信号塔のどちらか
渋谷駅前(102系統)における架線切り替えは、原則として「運転士」でした。
池袋や亀戸と同じく、頭上の感知器(コンタクト)に対して運転士がアクセルを踏むか・戻すかによって、電磁石ポイントが自動的に切り替わる動電転轍器が採用されていました。
ただし、渋谷駅前ならではの非常に特殊な事情として、「信号塔(操車塔)による見守りや手動補正」の重要性が極めて高かったエリアでもあります。
1. 運転士による操作(基本システム)渋谷駅止まり(循環ループへ向かう)の区間便と、そのまま明治通りを直進して恵比寿・品川方面へ向かう直通便の分岐では、運転士が頭上の感知器を見極めて進路を選択していました。
2. なぜ渋谷では「信号塔」の存在感が強かったのか?
昭和30年代の渋谷駅前(現在のスクランブル交差点付近)の頭上は、都電の架線と、トロリーバスの2本一組の架線が、網の目のように交差していました。さらに路面には都電のレールポイントがあり、これらは交差点脇の信号塔(操車塔)から係員が手動で切り替えていました。
3. トロリーバスにおける信号塔の役割
トロリーバスの空中ポイントは基本的に自動でしたが、渋谷駅前のような超高密度な交差点では以下の問題が頻発しました。
大渋滞による操作ミス: 車が詰まって交差点内でバスがノロノロ運転や急停車を余儀なくされると、運転士が狙ったタイミングで感知器に伝えることができなくなります。
ポールの股割き・離線: 切り替えが中途半端になると、ポールが外れて大事故になります。そのため、渋谷駅前の信号塔や地上にいた交通局の操車係(ラインマン・転轍手)は、常に頭上のトロリーバスの動きを鋭く監視していました。自動切り替えがうまくいかなかった場合や、ダイヤの乱れで急に進路を変更させる必要がある際には、地上から紐のついた長い操作棒を使って、手動で架線のポイントをパチンと切り替える補正操作を行っていました。つまり、システムとしては「運転士の操作(自動)」が基本でしたが、渋谷駅前のあまりの複雑さと混雑をさばくために、「信号塔や地上の係員による手動」が常にバックアップしていたというのが、当時の渋谷駅前の実態になります。
今井から車庫へ入るときは、今井終点で車掌がポールの紐を引っ張って切り替えた。なぜ運転士の自動ではないのか
かつて東京都江戸川区の今井終点(都営トロリーバス101系統など)で行われていた、車掌が手動でポールの紐(コード)を引っ張って架線を切り替えていた理由は、当時の日本のトロリーバスには、車内から運転士が遠隔操作で架線の分岐器を切り替える自動システムが導入されていなかったからです。
運転士が自動で切り替えられなかった背景には、技術的・構造的な以下の理由があります。
1. トロリーバスの架線構造と分岐の仕組み
当時の欧米の先進システム:車両側から微弱な電流を流すか、特定の速度・通電状態で通過することで、地上の分岐器を電磁石で自動反転させる仕組み。
当時の日本の一般的なシステム:地上の自動切り替え器が未整備、あるいは信頼性が低かったため、「物理的にポールを一度下げて別の架線に掛け直す」か「地上側のレバーや紐を直接操作する」必要がありました。
2. 今井終点・車庫特有の構造
今井終点には、本線用の架線と車庫(今井営業所)へ入るための入庫用架線が並んでいました。しかし、この分岐点には運転席からの操作で動く電動分岐器がなかったため、今井に到着すると、バスを一旦停車させなければなりませんでした。そして車掌が車両後方に回り、ポールの紐を引っ張って、物理的にポールを本線用の架線から車庫用の架線へと手動で移し替えていたのです。
3. 車掌の役割と運行効率
当時のトロリーバスは車掌が乗車していました。また、走行中にポールが架線から外れる「ポールドロップ(離線)」が起きた際も、すぐに車掌が外に出て紐を引き、架線に戻す役割を担っていました。このように、「2本架線という複雑な構造」に対して「車内からの遠隔切り替え技術が未熟だったこと」、そして「車掌がその手動作業を担える運行体制だったこと」が、自動化されなかった理由です。
戸山と昭和町の入庫線はどうだったか
戸山営業所と昭和町派出所の入庫線については、今井終点のような「車掌が完全にポールを外して隣の線に架け替える」という方法ではなく、池袋駅前などと同じ「電気式の自動分岐器(動電転轍器)」が導入されていました。
ただし、車庫の入り口という場所の特性上、本線上の交差点とは少し異なる、車庫ならではの運用の工夫がありました。
1. 昭和町派出所の入庫線
昭和町は南側の明治通りから直接敷地へ入る構造でしたが、ここは本線から車庫へ入るための自動分岐になっていました。
入庫の手順:明治通りを走ってきたバスが昭和町で入庫する際は、手前にある頭上の感知器を通過する瞬間に、運転士がアクセルを踏み込んで電流を流しました(力行走行)。
敷地内での手動操作:ただし、一本の入庫線から車庫内の「どの番線に停めるか」という細かい枝分かれ部分には、自動ポイントはありませんでした。そのため、敷地内に入った後は、車庫にいる操車係や車掌が、地上から紐のついた長い操作棒を使って、手動で架線ポイントを切り替えました。
2. 戸山営業所の入庫線
戸山営業所は、明治通りの大通り沿いに広大な敷地を構えており、入庫線も非常に機能的に作られていました。
本線からの分岐:こちらも明治通りの本線上から車庫の敷地へ入る分岐点には、運転士の操作で動く自動分岐器が設置されていました。池袋側から南下してきたバス、あるいは渋谷側から北上してきたバスが、それぞれ自動ポイントを切り替えて入庫していました。
「予備」としての手動操作:戸山は車両数が非常に多く、夕方や夜間の入庫ラッシュ時には、次々とバスが車庫へ吸い込まれていきました。そのため、もし運転士の操作がずれたり、先行車との間隔が詰まってうまく作動しなかったりした場合は、入り口に待機している地上の操車係が、瞬時に手動用の紐や棒を使ってポイントを切り替え、入庫が滞らないようにしました。
なぜ今井と異なり、戸山・昭和町は自動だったのか?
今井終点(営業所)は、101系統という「一本の独立した長い路線の終着点」であり、到着したすべてのバスが一旦そこで停車して折り返す構造だったため、車掌が外に出て紐を引く時間がダイヤ上あらかじめ組み込まれていました。一方で、戸山や昭和町が面していた「明治通り」は、車庫に入るたびに本線上でバスをいちいち停車させて車掌が紐を引っ張っていては、後ろを走る後続のトロリーバスや一般車を渋滞させてしまいます。そのため、自動分岐器が不可欠として整備されていました。
トロリーバス廃止の理由は、軽油と電力の価格差か
最大の理由は、燃料費(軽油と電力)の価格差ではなく、「道路混雑の激化による定時性の喪失」と「インフラ維持費の増大」でした。
1. 道路の大渋滞と「架線の縛り」
1960年代、東京ではマイカーやトラックが爆発的に増え、激しい道路渋滞が発生しました。普通のディーゼルバスであれば、前に故障車や違法駐車があれば右側に車線を変更して避けることができます。トロリーバスは、架線の真下から左右に数メートル(約4.5mが限界)しか動けませんでした。そのため、架線の下に車が1台立ち往生するだけで、トロリーバスはそこから全く動けなくなり、大渋滞を引き起こしてしまいました。
2. インフラ(架線・変電所)の維持
コストトロリーバスを走らせるためには、道路上に架線を張り巡らせ、変電所をいくつも維持する必要がありました。昭和30年代後半以降、ディーゼルバスの性能(エンジンの耐久性や排気量)が劇的に向上し、空中電線や変電所を維持するより、バスに切り替えたほうが圧倒的に安上がりである」という経営判断が下されました。
3. 都市開発(道路拡幅や高架化)との衝突
高度経済成長期の東京では、至る所で道路の拡幅工事や、首都高速道路の建設、国鉄の立体交差化(高架化)が行われていました。道路の形が変わるたびに、架線を何キロメートルにもわたって架け替える必要があり、その工事費用が東京都交通局の大きな財政負担となりました。
燃料・電力の価格差はどうだったのか?
当時、電力価格と軽油価格を比較すると、電気代そのものはそれほど極端に高価だったわけではありません。むしろ、トロリーバスは「排気ガスが出ない」「モーターなので静かで加速が良い」というメリットがあり、環境面や乗り心地ではディーゼルバスより優れていました。しかし、それらのメリットを打ち消すほど、「渋滞で動けなくなる(定時性が保てない)」ことと、「架線や変電所の維持費が高すぎる」という2つの問題が深刻化したため、1968年(昭和43年)までにすべての都営トロリーバスがディーゼルバスへと置き換えられることになりました。
アメリカやヨーロッパでは、今でもトロリーバスが走るが、日本との違いは
アメリカやヨーロッパで今もトロリーバスが生き残り、むしろ「環境に優しい乗り物」として進化している一方で、日本で衰退してしまった背景には、「道路の広さ」「インフラに対する公的支援」「車両技術の進化(バッテリー化)」という決定的な違いがあります。
欧米と日本の環境や運用の違いは、主に以下の4つのポイントにまとめられます。
1. 道路のゆとりと「専用レーン」の有無
欧米でトロリーバスが健在な都市(アメリカのサンフランシスコ、シアトル、欧州のジュネーブやザルツブルクなど)の多くは、道路が広く設計されています。
欧米: トロリーバス専用レーン(バスレーン)がしっかりと確保されているため、一般車の渋滞に巻き込まれず、定時性を保てます。
2. 「架線がなくても走れる」車両技術の進化
現在の欧米のトロリーバスは、技術的に日本の当時とは別次元の進化を遂げています。
「IMC(イン・モーション・チャージング)」技術:最新の欧米の車両は、大容量の走行用バッテリーを搭載しています。架線がある区間を走っている間に自動で充電し、交差点や歴史的景観の美しいエリア、架線のない区間ではポールを下げて「普通の電気バス」として数キロ〜十数キロメートルも自力走行できます。
3. 公共交通に対する国・自治体の「補助金と哲学」
インフラ(架線や変電所)の維持費に対する考え方が根本的に異なります。
欧米:「排気ガスを出さないクリーンな街づくり」を都市の重要政策として掲げています。そのため、架線のメンテナンスや変電所の維持費に対して、国や自治体から手厚い財政支援(補助金)が出ます。
日本(当時の東京都):当時は高度経済成長期で、財政難に陥っていた東京都交通局は「採算性」を重視せざるを得ませんでした。路面電車(都電)やトロリーバスのインフラ維持費をすべて交通局が自前で賄うのは不可能なレベルに達しており、「道路を走るだけならインフラ維持費ゼロ」であるディーゼルバスへの転換が唯一の解決策となってしまいました。
4. 法律上の位置づけ(「鉄道」か「バス」か)
日本独特の規制も、トロリーバスの維持や新設を難しくしています。
日本:日本の法律(鉄道事業法)では、トロリーバスは「無軌条電車」という普通のバスではなく「鉄道(電車)」の一種として扱われます。そのため、運転士には大型二種免許だけでなく「電気車(無軌条電車)運転免許」という国家資格が必要です。
さらに、架線の下の道路も「鉄道の敷地」に準じた厳しい安全基準や検査が義務付けられ、コストが跳ね上がります。
欧米:多くの国で「電気で動くバス(道路交通法の一部)」として比較的柔軟に扱われており、導入や運用のハードルが日本ほど高くありません。このように、欧米では「広い道路」「最新のバッテリー技術」「環境への公的投資」が組み合わさることで、トロリーバスが都市交通の主役として今も現役で走り続けています。日本の場合は、昭和30〜40年代の爆発的なモータリゼーション(車社会化)と法規制の壁によって、その進化のチャンスを逃してしまったと言えます。
都電も、信号塔を廃止し、時間によって「直」「曲」が点灯し、そのときコンタクターを通過するとポイントが切り替わるようになった。トロリーバスはなぜ、違うやり方だったのか
都電では、分岐点の手前で「直進」「曲(右左折)」の表示灯が交互に点灯し、「自分が進みたい方向のランプが光っている瞬間」を狙って、トロリーコンタクターを叩く(通過する)ことでポイントが切り替わる仕組みでした。
これに対し、トロリーバスがこの方式を採用せず、先述のようなアクセルによる電流選択式を使い続けたのには、「架線の構造の違い」と「道路上を走るバス特有の制約」という決定的な理由がありました。
1. 「時間(点灯タイミング)」を待って停車する余裕がない
都電はレールの上を走るため、信号灯のランプが自分の進みたい方向(例:「曲」)に切り替わるまで、分岐の手前で「一時停止」して待つことができました。
しかし、トロリーバスは「一般車が激しく行き交う道路の車線」をそのまま走っています。自分の行きたいランプが点灯するのを待つために、バスが交差点の手前で完全にストップしてしまうと、後続の一般車やトラックを大渋滞させてしまいます。
2. ポールが「2本」ある
頭上にある「2つのポイント(可動部)」を、連動して動かす必要がありました。都電のような「コンタクターを叩いた時間」で制御する方式を2本架線に応用しようとすると、2つのポールの接触タイミングのわずかなズレ(車体の傾きや速度によるズレ)で誤作動を起こし、プラスとマイナスのポールが別々の線に入ってしまう「股割き事故」が起きやすくなります。
3. トロリーバスのポールの「しなり(追従性)」の限界
都電のパンタグラフやビューゲルは、車体の真上に固定されており、横にブレることはありません。しかし、トロリーバスのポールは、バスが左右に車線変更できるように左右に大きく「しなる(動く)」構造になっています。バスが交差点の手前で車線を少し変えただけで、頭上のポールは架線に対して斜めに入車することになります。
このように車体と架線の位置関係が変わるバスにおいて、都電のような時間制御は、物理的に接触不良を起こしやすく不向きでした。
渋谷から品川は、東急の反対があり、運行本数を制限されたが、その様子は
都営トロリーバス102系統(池袋駅前〜渋谷駅前〜品川駅前)のうち、1956年(昭和31年)に延伸された「渋谷駅前〜品川駅前」の区間は、東急(東京急行電鉄)から猛烈な反対を受け、運行本数が厳しく制限された状態でスタートしました。当時の東急側との対立の背景や、制限された歪な運行本数の実態は以下の通りです。
1. 東急が猛反対した理由(縄張り争い)
当時、渋谷から五反田・大崎・品川にいたるエリア(明治通り南部)は、東急バスの縄張りでした。そのため、東急は「民間の営業基盤を脅かす公営交通の進出」として、陸運局への申請段階から徹底的な反対運動を展開しました。
2. 本数を極限まで減らされた「妥協案」
東京都と東急の激しい交渉の末、最終的に「路線を開設することは認めるが、運行本数を東急側の営業に影響が出ないレベルに抑え込む」という厳しい条件付きの妥協案が結ばれました。
池袋〜渋谷間: 数分おきに次々と高頻度でトロリーバスがやってくる超高頻度路線。
渋谷〜品川間: 延伸区間に入った途端、本数が激減し、「1時間にわずか1〜2本程度」(1日30数往復程度)という、大都市の幹線とは思えない極端な過疎ダイヤに制限されました。
3. 当時の実際の運行の様子(歪なダイヤ)
この本数制限により、102系統では以下のような不自然な運行スタイルがとられました。
ほとんどが「渋谷駅前折り返し」に:池袋や戸山側からやってきた102系統のトロリーバスの大部分は、渋谷駅前の巨大な循環線を使って、池袋方面へと引き返していきました。
乗客も、渋谷から先へ向かう場合はトロリーバスを待つより、東急バスや山手線に乗ったほうが圧倒的に早かったため、渋谷〜品川間は常に閑散としていました。
4. そして都営トロリーバスで「最初の廃止区間」へ
東急による本数制限でまともな営業ができなかったことに加え、1960年代後半には明治通り全体の渋滞が致命的になりました。ただでさえ本数が少なく利用者が定着していなかった「渋谷〜品川間」は、都営トロリーバスの全線廃止(1968年)よりも前の1967年(昭和42年)12月に、都営トロリーバス全路線の中で「最初の廃止区間」としてあっけなく切り捨てられることになりました。
都電とトロリーバスの営業所と車庫は、一つの組織か、それとも営業課と工務課など別だったか
営業所(車庫)の内部:営業と整備は別だったか?
質問にある「営業と工務(整備)が別だったか」という点ですが、「一つの営業所(車庫)の中に、営業(運行)を担う部署と、車両の整備を担う部署が同居していた」というのが正解です。一つの営業所(車庫)は、主に以下の2つの職種(課や係)に役割が分かれていました。
業務(営業・運行)側:運転士や車掌の労務管理、ダイヤの作成、運賃(売上金)の管理などを行う部署です。いわゆる「駅務・乗務」の営業課にあたる仕事です。
検修(車両・整備)側:車庫のピット(床下点検スペース)で、トロリーバスのモーター、制御器、ブレーキ、そして命綱であるポールのバネや触輪などを毎日点検・修理する、いわゆる「車両課・工務課」にあたる職人たちの部署です。
つまり、戸山営業所や今井営業所という一つの組織の長(営業所長)の下に、「運転士や車掌のグループ」と「整備士(検修員)のグループ」が両方所属し、一体となって日々の運行を支えていました。
資料集2
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