三千百九十三(うた)二度目の岩井秀一郎「多田駿 伝」その三、良寛和尚登場
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十六日(日)
ドイツが突然、独ソ不可侵条約を結び、平沼内閣は八ヶ月で退陣が決まった。板垣に代はる新しい陸相案として
東條英機は、今後の陸軍を率いていく上で必要な向こう意気の強さが期待されるが、人事についての考えに偏りがあり(中略)西尾寿造(教育総監)は、すでに支那派遣軍総司令官として決定しているし、中級将校の反対もある。さらに磯谷廉介は、ノモンハン事件(中略)処罰されるかもしれない、(中略)最後の多田駿は、東條とは反対で考え方に偏りはないので周囲を固める人選が良ければ人事においても公平性を保てるだろう
しかし筒井編「昭和史講義2」によると
「多田」決定の報を受けた渡部が「これでは血を見ます」と発言。東條の腹心である東京憲兵隊長(氏名略)が木戸幸一内務大臣に多田陸相案に反対する旨を談判。同日の新聞夕刊では、飯沼の渡満を受けて「後任陸相に磯谷廉介中将」や「陸軍大臣 多田駿中将(最有力)」と報道される。昭和天皇は(中略)「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承認する意思はない」とし、「畑(俊六)か梅津(美治郎)」を指名。
飯沼は陸軍省の人事局長。渡部は防衛課長で日華事変の拡大派として、血を見ると発言したのだらう。東條は、やはり裏で糸を引いてゐた。それどころか、報知新聞政治部記者によると
東京憲兵隊はわざわざ「磯谷陸相候補」という偽の情報をリークしてまで多田の陸相就任をつぶしたことになる。
-----------------------------ここから良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百三十一)----------------------------
飯沼の日記には
<朝八時半頃、牡丹江着。[多田と面会。]ただし、[陸相就任の打診は中止せよという(中略)]電命により、雑談を交したのみ。[多田からは]良寛の話などを聞き、良寛物語を貰い、迎えの飛行機で新京へ四時頃着。
ここで良寛和尚が出てくる。さて
筒井は(中略)昭和天皇は石原莞爾を警戒しており、それが原因で石原と近い関係にあった多田が忌避されたのではないかと述べ
それは無いだらう。同じく石原と近い関係だった板垣は、このときまで陸相だった。さて
昭和十七年から(中略)ジャワ島方面軍司令官を務めていた今村均(十九期)が、軍務局長の武藤章らに軍政が温情的すぎると批判された時に、
「開戦前の占領地統治要綱には公正な威徳で民衆を悦服させ・・・・とあるが(以下略)」
と反論している。
武藤章は、とんでもない男だ。
終戦後インドネシアは今村の人徳により親日が長く続きて 最近の新幹線の計画を変更によりつひに終了
反歌
蘭印のインドネシアは占領が共栄圏に唯一成功
今村は、多田と同じく仙台藩士の家に生まれ(中略)「悦服」を重視した点も、両者は共通している。(中略)当時の日本の新聞にも、「多田将軍と老婆」の題で(中略)ある中国人女性が、老齢と貧困のために病死した夫の葬儀もできず、自分も餓死するばかりになった。(中略)多田は、さっそく救いの手を差し伸べたという。
更に
楢橋渡(戦後に法制局長官や運輸大臣を歴任)もその一人である。(中略)<北京で日本軍がカトリック孤児院を包囲して食糧を遮断した時、教会の人々が私に救いを求めたので、多田大将に談判したら(中略)囲みをとかせ、五千袋のメリケン粉をこれらの人々に確保してくれたことがある。(以下略)>
楢橋は
<多田大将は(中略)詩人相馬御風を敬愛し、良寛を研究し、支那に対しては不拡大主義で、東條政策と対立していた。板垣征四郎、石原莞爾もその同志であった。
東條は 謀略により陸相の多田を就任妨害し 後に自身が就任後人事偏り 更に後首相となりて弾圧し敗戦により国を滅ぼす
反歌
武藤にも軍政につき今村を温情過ぎる的を外れる(終)
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