三千百九十五(うた)二度目の岩井秀一郎「多田駿 伝」その四、多田の中国時代
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十七日(月)
板垣が、陸相から支那派遣軍総参謀長に転出し
入れ替わるように、ほぼ同時期に軍務局長として陸軍中央に復帰した武藤章は、中国現地での戦闘経験を経て、かつて自身が率先していた拡大派の「対中一撃論」に疑問を抱き、蒋介石との和平交渉に活路を見いだすように”転向”していくことになる。しかし、陸軍内に浸透していた拡大派の流れは、すでにとどめようもなくなっていた。

拡大派傲慢による侵略は帝国主義に流れ止まらず

陸相にならなかった多田は、北支那方面軍司令官に任命された。
<軍の任務は、占拠地域の安定確保にありしをもって(中略)民心をして日本軍に悦服せしむることを基準として、(以下略)>(『多田駿遺稿』)
(中略)
<民心の把握という言葉は、我を主として考えることなるをもって(中略)使用せず(中略)悦服という言葉を使用せり>(同前)

このあと、前回紹介した、今村均が武藤章に悦服の語で反論した話に繋がる。
悦服の語は珍しも 把握より民衆の側 多田及び今村使ふ優れ指導者

次に、同じく北支那方面軍司令官時代に
一人の若い日本人教師が北京に赴任し(中略)小杉誠治という新潟県糸魚川出身の青年で、(中略)相馬御風の教え子だった。

多田は小杉に
「ここは日本ではない。中国の北京であり、軍民ともにお世話になっていることを忘れてはならない。従って早く中国語をおぼえ、この国の習慣や歴史を重んじて行動してほしい。
(中略)最近、満州や内地から来る日本人の中には恥ずかしい行動の人士が多いので困る。(中略)日清、日露戦争後、北京に定住した日本人の家庭と子供は、日本を代表しての意識が強く、(中略)この人たちに学ぶべきである。中国人に対して決していばってはいけない」

その後
多田のことを次のように振り返っている。
<[多田]閣下は中国語の達人であられ、(中略)民衆を愛しておられました。敗戦後も戦犯の汚名を受けず、(中略)中国民衆の清巌にるものとされています。>(雑誌『中学校』第193号)

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さて
軍務に精励する一方で、多田はこの時期、北京で発行されていた在留邦人向けの日刊紙「北京東亜新報」夕刊に匿名コラムを書き始める。題して「迷悟洞涓滴」という。
「迷悟洞」というのは(中略)良寛和尚の庵「迷悟洞」にちなんだもので、「涓滴」とは筆から滴る雫のことを指し(以下略)

冒頭は
公私一如
公私を対立させ区別して考え(中略)これがいけないと思う。
公生活はきちんとしておれば、私生活は何をしてもいいという考えは間違ってゐる(以下略)

大賛成。三つ目の
中国通
中国にも長いこと住んでいてよく中国を知ってゐると自負する或る人が、中国人の特性として、(中略)悪いところだけを十一も列挙して本に書いた。
(中略)
「君の本にあるようなそんな欠点だらけ(中略)なら仲よくする必要なんかないじゃないか」
といったことがある。
相手の悪いところだけをみていたんじゃ、日本人同士だって仲よくなりっこはない。(中略)此種の中国通が少くない、又逆に全然反対の中国通も少くない。判断の標準を自己に摑まないからだ。>

緑部分について、岩井さんは
あるいはそれと全く反対に、相手の美点しか見ない

と解説する。これは現在では、日本の対アメリカに云へる。美点しか見えない人が多い。(終)

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