三千百九十一(うた)続、二度目の岩井秀一郎「多田駿 伝 「日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」」
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十五日(土)
多田が、御前会議の四日後に妥協したことについて
参謀本部支那課長で、多田と同じく「支那通」として知られた影佐禎昭大佐は、多田を
「(前略)あるところまで行ったら投げてしまうところがあるので、(以下略)」
(中略)
堀部一雄少佐は(中略)近衛首相が天皇陛下に上奏する前に、参謀本部の真意を上奏する---そんな奇策を立てた戦争指導班は各所に連絡を取り、駆け回った。しかし、奮闘むなしく結論は覆らず(以下略)
多田が最後に妥協してしまったことについて、当時軍務課の西浦進は
帰って来ていよいよ帷幄上奏をして一戦を交えるか、屈服をするかということで(中略)多田次長、それから当時の総務部長後の無参謀次長になりました中島[鉄蔵]さん、それから部長クラスで相談をしたのですが、結局いまあれをすると内閣を瓦解さす、(中略)私の想像なんですが、その前に例の宇垣流産で陸軍は非常に評判が悪くなっている。お上からもお覚えが悪いものですから(以下略)
著者の岩井さんは
今度また陸軍が原因となって天皇陛下の覚えめでたい近衛首相を辞職させるようなことになれば、天皇の陸軍への不信・憤慨が募り(以下略)
と述べる。後の、多田が陸相になることに天皇が反対した理由が、今まで分からなかった。杉山が武藤が工作したか、と想像したが、近衛が天皇に意見を述べた可能性が高い。
連絡会議での多田次長と杉山元(はじめ)陸相の衝突はよほど激しかったようで、米内光政海相の日記にも「(前略)陸軍大臣(括弧内略)と参謀次長(括弧内略)との大衝突があった」と(中略)第三者のような書き方だが、米内自身が多田に対して「交渉打ち切りか、さもなくば内閣総辞職か」と迫っていたのである。(以下略)
しかし、その後の両者が辿った道は、実に対照的といえる。米内はやがて総理大臣(昭和十五年)として内閣を組織し、その後も再び海軍大臣(昭和十九年~)として歴史の表舞台に立つ。一方の多田はといえば、参謀次長を最後に軍の中央部から離れ、日本が米英との戦端を開く前に現役を退いた。
陸相の米内拝米蔑華にて事変拡大国を滅ぼす
四月二十六日(日)
保阪正康は
<陸軍内部にあって、積極論と消極論が対立すると、かならず積極論が勝つ。(中略)消極論を吐くことこそもっとも勇気のいることだった。
(中略)最終段階では、彼らは秩父宮を押し立てて抵抗する。(中略)参内し「どうしてもこれ以上の戦争をつづけることがあってはなりません」と申し出ている。(以下略)
天皇は、すぐには回答しなかった。だが、近衛首相が参内した時に、「(前略)なぜ初めにいわんのであったか」と洩らしていたといわれる。(中略)天皇もまた正確な情報を得ていたわけではなかったのである。>(保阪『陸軍良識派の研究』)
そして
昭和十三年に出版された西郷綱作『板垣征四郎』という本に、次のような記述がある。
(前略)参謀次長多田駿中将は(中略)東洋道義に厚い、私心のない武将である。彼の今事変における態度は、日本歴史に特筆さるべきものであろうが、今、それを述べる自由がないのは残念である。>
今それを述べる自由がないの意味 空気かまたは官憲か 書くべきものは更に輝く
反歌
秋津洲日華事変の拡大が国を滅ぼし今へと続く
これで、第三章が終了する。(終)
(社会の復活を、その六百一)へ
メニューへ戻る
うた(一千八百三十)へ