三千百七十五(うた)短編物語(続、沼津客車操車場は無くならず)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月十日(金)
第一章 空気式緩衝器を開発
鎖式連結器の緩衝器と同じ性能を持つ技術が、JR貨物によって開発されたとしよう。今回の物語は、ここから始まる。やり方は、客車を連結した後、緩衝器に圧縮空気を入れる。これで、列車は前にも後ろにも、機関車を付け替へることなく、同じ最高速度で走行できるやうになった。
客車の最後尾に運転室を作り、新富士から富士経由身延線富士宮の間で使用を開始した。次に、新富士と富士の一駅間の気動車を客車化した。これは、JRの旅客会社が機関車を廃止したのと同じ理由で、貨物会社は気動車を廃止して機関車に統一したほうが、検査修繕と乗務員育成で効率がよかった。
空気式緩衝器こそ国鉄が開発すべきに怠りて 客貨分離の民営化つひに客車はほぼ消滅に

反歌  民営時動労と組み社会破壊首相と課長悪弊続く

第二章 これ以外に客車化された列車
東北線や常磐線から、保田へ行く列車があり、JR東はそれまで団体列車を電車で運行してきた。しかし交直両用電車は、製造費が高い。操配用で稼働率が低い交直両用電車は、避けたかった。そこで、JR貨物はJR東に、客車列車で武蔵野線から京葉線に入る方法を提案した。そして、この方法が実現した。
西日本から、西神田や保田へ行くには、東海道新幹線を東京駅で乗り換へた。しかし東京駅は混む上に、品川駅みたいに団体待合所から階段を一つ降りれば、臨時ホームへ着くのとは異なる。そこでJR貨物は、客車列車による飯田町または保田を提案し、これも採用された。
京都にある六本山の一つへは、新幹線で京都までが一般的だが、本山までは地下鉄を二つ乗り継ぐ必要がある。JR貨物は、客車列車で山科駅までを提案し、地下鉄一本で済む上に、駅がそけほど混まないので、これも採用された。
物語では、団体列車の行き先は、富士宮、飯田町、山科、保田、修善寺と、多岐に渡る。そのため、品川と富士宮間はそれほど需要が多くはなく、電車による定期列車を止めて、富士宮折り返し客車列車の間合ひ使用に戻した。戻した、としたのは、昭和四十年代前半までは、もともとこのやり方だった。その後、富士宮に留置線が造られ、電車による輸送に変更してゐた。それを元に戻しただけだった。
元々は全国から来る客車群 品川までの回送に首都圏からの会員を載せて往復 元へと戻る

反歌  湘南型古く加速はうるさきも近郊型は団体に合はず
反歌  旧型車釣り掛け式の駆動にて加速の時はうなり音あり

第三章 JR貨物の提案列車
JR貨物では、初代会長の出身地である越後線荒浜への団体列車も提案し、本数は少ないが全国から一ヶ月に数本運転されるやうになった。
二代会長の生育地である厚田へは札幌貨物ターミナル駅を提案した。しかし、札幌駅より更に遠い。宗教団体は、高齢者もゐるのでバスの乗車時間の少ない駅を希望した。札幌駅は混雑する上に、バス乗り場がない。札幌の手前で、海岸沿ひの国道を走れる銭函駅が選ばれた。この列車は月に一本程度運転された。寒冷対策の為、北海道へ乗り入れる車両と、北海道から本州へ来る車両は、寝台車の24系とした。
直流電化、交流電化、新幹線電圧、非電化を問はず走れる客車と、緩衝器による機関車付け替への手間を省いたことにより、沼津駅常備の車両が、全国展開されることになった。
沼津から全国唯一客貨車区貨物会社は国内一社
(終)

(短編物語、その六十二)へ (短編物語、その六十四)へ

(路面電車、客車、その周辺、八十九)へ (路面電車、客車、その周辺、九十一)へ

メニューへ戻る うた(一千八百十五の四)へ うた(一千八百十六)へ