三千百七十五(うた)短編物語(沼津客車操車場は無くならず)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月八日(月)
第一章 12系が常備された操車場
昭和四十五(1970)年に大阪で開催された万国博覧会に備へ、国鉄は12系客車を開発した。博覧会終了後は、操配用として団体列車と多客時の臨時列車に使用された。
その翌年から、12系を特急仕様にした14系も作られた。14系は寝台車と座席車があった。
12系は多くの客車操車場に常備され、それら操車場のうちの一部に、14系も常備された。これは、特急車両を一部の車両基地に限る、国鉄の方針に沿ったものだった。
ところが全国で、品川と沼津だけは、12系無しに14系だけが常備された。これで、12系は宗教団体用だったことが分かる。品川と富士宮の間は、電車の団体臨時列車のダイヤを組んである。だから品川は12系が要らない。沼津は、富士宮に近いから、団体臨時列車が無かった。
第二章 まさかの団体列車廃止
ところが、宗教団体と所属する宗派が不仲になり、分かれてしまった。まづ、品川駅の団体待合所が廃止され、跡は商店が並ぶ賑はひの駅空間と化した。
富士宮駅でも、団体列車専用ホームが使はれなくなり、少し甲府側にあった操車場が廃止された(別の短編物語へ)。次に、12系が次々に廃車になった。
ここで、宗教団体は、六本山と提携したとしよう。すると不仲にならず、団体列車は全国から、(1)富士宮または富士、(2)伊豆箱根鉄道修善寺、(3)京都、(4)保田、まで多数が往復した。これは、連携した本山が六つあるためだった。
後に西神田の本部への、団体列車も運転されるやうになった。飯田町貨物駅内に、ホームを設置した。
第三章 国鉄分割民営時の提案
JR分割時に将来を見越して、宗教団体用12系はJR貨物の担当とし、沼津駅の客車操車場常備とすることを、提案する人がゐた。普段は全国に展開し、数ヶ月に一回の検査のときに、団体列車として富士宮へ来た車両を沼津で交換し、再び全国へ展開した。各旅客会社はこれに賛成し、JR貨物も旅客車両を扱へることを喜んだ。
JR貨物では、客貨車区の技術伝承として、沼津客貨車区を活用した。客貨車の検査修繕は、尾久客車区でもホッパー車やレール運搬車を扱ふやうになったが、尾久は元々、客車と気動車だった。そして、青函トンネルが新幹線工事で電圧を変へるときに、カシオペアを除き廃止になり、カシオペアは六両づつ客車区へ入区するため、従来の手法とは異なった。しかも2025年に機関車全廃の煽りを受けて、これらは廃車になった。それに対し沼津客貨車区は、分割前の姿を維持するとして、鉄道記念物に指定された。
客貨車を一両単位入れ換へて 客貨車区へと入庫させ定期検査を伝承手法
反歌
客貨車区長き歴史を引き継ぎて客車と貨車は昔ながらに
各旅客会社は、臨時列車の電車化を進めて、客車は宗教団体用のみになった。14系も余ったが、宗教団体の乗客の中には、値段が高くても特急車両のほうがいい、と思ふ人もゐて、値段に差をつけて12系と14系を使ひ分けた。所要時間も、特急として速くなった。
第四章 新幹線化の波
新幹線が開通するにつれて、新幹線で新富士、三島、京都、東京まで来ることが多くなった。JR貨物は、生き残りのため新富士と富士駅間の単線非電化の新線を、長期契約で提案した。京都、三島から修善寺、保田は電車に譲ったが、新富士と飯田町を死守した。
新富士から富士までは、JR貨物唯一の旅客営業路線になり、団体列車は12系で富士宮まで、一般列車は気動車を導入し、富士までを往復した。(終)
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