三千百六十一(普通のうた、朗詠のうた)随想集(困難時の瞑想、文学論、劣化や堕落)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月二十三日(月)
乗り換へ時に、電車が遅れたことがある。かう云ふときに瞑想をすると、効果が大きいと感じた。暑くなく寒くなく、静かな場所、と普勧坐禅儀だったか坐禅用心記だったか。
しかしこれらに反するときにこそ、効果がある。とは云へ、わざと困難な状況を作ったら駄目だ。それでは効果に執着してしまふ。これが遅れた電車を待つ間に、考へたことだった。
最後に。曹洞宗を一言批判的に見ると、坐禅に執着し過ぎる。坐禅は、三学のうち禅定が主で、仏法の三分の一だ。坐禅は、慧にも役立つし、戒の助けともなる。一方で、戒や読経や古文書学習も、禅定の一助となる。つまり、すべて合はせれば、三分の一だ。
三学の三分の一 仏法に坐禅修行は必須にも すべてに非ず戒と智慧あり

反歌  秋津洲辺境の地は三学の智慧のみまたはそれさへも無し

------------------------------ここから「和歌論、文学論」(二百八十八)----------------------------
三月二十四日(火)
良寛和尚の詩を精読、その二に、「七つの施しに同等として、美しい文章、役立つ文章も、含まれる」と書いた。我ながら旨いことを考へたものだ。考へを文章に書くときと、文章を書くことで考へることがある。
文章を書くときに、世の中の役に立たうと思ひ書かなくては駄目だ。職業物書きは、収入や名誉が執着になるから、あれはあくまで職業なのだらう。
美しや役立つふみを詠むことは施しなるも 書く人の生きる糧には重すぎるかも

反歌  施しはたれにもできる目と顔に始まり美し役立つ文も
「和歌論」(二百八十七)へ 「和歌論」(二百八十九)へ
------------------------------ここまで「和歌論、文学論」(二百八十八)----------------------------

三月二十五日(水)
小生は、頓悟の考へが嫌ひだ。悟らなかった人は、今までの分が無駄になる。因果の法則から、それはあり得ない。頓悟派からは、悟らなかっただけで、今までの分は無駄にならない、と云ふだらう。それなら、その分を併せて悟りの段階を増やすべきだ。
これは漸悟に同じだ、と漸悟派は云ふだらう。しかし、漸悟は頓悟を何段も重ねただけだ。一段づつを見れば、それは頓悟だ。
小生が正しいと思ふのは、無段または無限段だ。これは良寛和尚の詩を精読、その一に書いた内容だ。
もう一つ、無段または無限段が正しいと主張する根拠がある。地上のものは、重力で下に落ちる。同じやうに、悟っても、劣化や堕落が起きる。だからと云って、高齢になって劣化することを心配する必要はない。
死後の評価は、これまでの累積である。水道メーターと同じで、高齢になってから減っても、若いころにたくさん積めば、その分を持って行ける。
無限段無段の修行世間には階段及び変速機かな

良寛和尚も、晩年に劣化や堕落があった。宗派に属さないことが、布薩効果や引退制度など蓄積された高齢者対策が未発達だった為だ。とは云へ、幕府の宗教政策で堕落した僧たちよりは、はるかによい。(終)

「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十五) 「良寛和尚と原始仏法を尋ねる」(二百二十七)

メニューへ戻る うた(一千八百)へ うた(一千八百二)へ