三千百六十九(うた)最新の歌論(仏頭石歌、同じ助詞の繰り返し、散文に埋めた歌、日々の工夫)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
三月三十一日(火)
仏足石歌は、五七五七七 七で、薬師寺の仏足石にこの形式で刻まれるため、その名がある。薬師寺の仏足石以外にも、古事記、万葉集、播磨国風土記』に、一首づつ見られる。
今回)1.続お花見(南浦和駅西口側、北戸田)、2.上の子が母の顔を見に来たに、小さく書く七音を最初に持ってきて、七 五七五七七とした。「大和武の 新治と筑波は近く酒折と石和も近く土の神あり」である。
名付けて、仏頭石歌。仏足石の元々の意味は、お釈迦様の足跡である。お釈迦様が入滅後に、お釈迦様を表すのに最初は仏足石を用ゐた。後に、仏像が作られるやうになった。
仏像が現れる前 仏足の跡を形の石または 菩提樹の木を 釈尊と崇め敬ひ僧伽は続く
反歌
仏像は現れてから長き故今は貴重な対象として
それに対し、小生が仏頭石歌と呼ぶ場合の石とは、小さく書く七文字の事である。仏足に置くのが仏足石歌、仏頭に置くのが仏頭石歌。
もう一つ別の話題で、「2.上の子が母の顔を見に来た」は、最初「2.上の子が母に会ひに来た」だった。しかしこれだと、同じ助詞を繰り返すために、語感が悪い。助詞の問題が無ければ、原案のほうがいい。気にしない人が多いが、同じ助詞の繰り返しは、絶対に避けるべきだ。破調と、同じ程度に悪い。
小生の歌は、すべて散文に組み込まれる。かつては、例外にメモ書き歌があったが、今はメモ書き歌が無くなった。これは、単に老化が原因だ。
普通の人は、小生の歌を真似してはいけない。散文に埋めた歌は、それ自体で歌に美しさを生じ、散文を美しくする効果も持つ。歌を単独で作る人が、小生の真似をすると、美しさが欠乏してしまふ。歌は、定型ともう一つ、最低でも二つ美しさが必要だ。
四月一日(木)
歌に二つ必要論は、最初美しさだった。その後、実効になった。そして今回は、工夫を提案したい。この三つはほとんど同じだが、少し異なる。その異なりは、小生の状況を映す。美しさのときは、自然派だった。実効のときは、散文と併せて実効を重視するときだった。今回工夫としたのは、仏頭石歌の直後である。お座敷小唄の本歌取りも、工夫の一つだ。
古今和歌集のあと、駄目な歌ばかりなるのは、工夫が無かった、つまり月並み化した。同じことが、江戸時代末期にも起きたし、今でも起きる。
月並みを防ぐ力はあからひく日々の工夫に勝ること無し(終)
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