二千九百八十一(うた)短編物語「天台宗法華経派」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月四日(火)
はじめに
前に叡山を批判し、あのときは反法華経だった。意見は両方から聞かなくてはいけないので、今度は良寛和尚に法華経を解説してもらった。法華経と云へば法華宗なので、まづ日蓮についてお聞きした。
第一章 佐渡以後
日蓮は、数あるお経の中で、法華経が勝れるとした。これは、中国天台宗智顗の教へである。しかし日蓮は、日本の天台宗が密教を採り入れたので法華経に帰れ、と強硬に主張し他宗を攻撃した。そのため他宗を信仰する地頭や幕府要人から恨みを買ひ、弟子が殺害され、龍ノ口で首を斬られさうになった。龍ノ口のときは処刑が中止になり、佐渡ヶ島へ流された。
日蓮の主張が変になったのは、このときからであった。
首を斬る或いは佐渡にみつ年も流すの刑は 身心に変はることありその教へにも
反歌
龍ノ口首をはねられ魂が佐渡へ渡りて島へ留まる
反歌の意味について、日蓮は開目抄に次のやうに記した。
日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ。此は魂魄(こんぱく)佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろ(怖)しくてをそろしからず。み(見)ん人、いかにを(怖)ぢぬらむ。
第二章 身延池上中山京都
法華経全体が有難いものとするほかに、法華経の後半が勝れ前半は劣るとする主張が出て来た。勝劣派と呼ばれる。後半は、お釈迦様を越えた仏がある、と説くからだ。
全体が有難いと説くのが、身延池上中山京都など。勝劣があるとするのは、佐渡以後の教へを信じる日像の多くに枝分かれした門流と日興。良寛和尚の場合は、道元和尚が法華経を尊重したので、それに倣った。しかし帰国の後は、と云ひかけて、越後に帰国の後は、と云ひ直し、法華経は物語として読むやうになった。
道元和尚が尊重したのは、唐土の宗派は学派なので、他の宗派との間に境界がない。おそらく向かうの曹洞宗で教はった師匠が、天台宗でも学んだためではないかな。
学ぶ派は仏の道が一つへと繋がるものを 派分けには道はそれぞれ交はらず行く
反歌
日の本の天台宗は派を分ける先駆けとなり世を後へと
平安時代に、天台宗と真言宗が日本に誕生した。真言宗は、南都六宗に対し融和的だった。天台宗は、南都六宗と真言宗に対して、敵対的だった。
第三章 一致派のあるべき姿
一致派は、教へが佐渡以前なのに、お師匠さんの言葉だからと佐渡以後を捨てきれない。しかし、佐渡以後は勝劣派に任せて、天台宗法華経派と名乗るべきだ。
もう一つ、唐土の天台宗には止観と云って、曹洞宗の坐禅と同じ修行がある。智顗には摩訶止観の著書もあり、智顗三大著作の一つだ。それなら天台宗法華経派は、止観を行ふべきだ。日本の宗派は、最澄以降に教団になってしまった。その弊害が現れた。
良寛和尚の、法華転、法華讃を書いた理由が分かった。和尚が晩年に、門徒宗に理解を示す理由も分かった。門徒宗はもう一つ、和尚の妹の嫁ぎ先だった。
唐土の天台宗は、初祖を慧文、第二祖を慧思、慧思の弟子が第三祖智顗になる。日本の天台宗法華経派は、高祖慧文、師祖慧思、宗祖智顗、伝祖最澄、中興派祖日蓮、としたらどうか。これが良寛和尚の結論だった。更に解説を加へ
慧文は、龍樹の『中論』を元に止観を行ひ、「一心三観」を得た。
慧思は、慧文の指導で禅に励み、頓悟を得た。仏教界の迫害に遭ひ、光州の大蘇山(河南省)で法蓮経と大品般若経を中心に教化した。ここでも迫害に遭ひ、末法を悟った。
最澄は密教を入れ 日蓮は法華経のみで他の経と止観を禁止非常の教へ
反歌
慧文慧思止観を元に法華経を習ひ多経を捨てることなし
「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百八十七)
兼「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百八十八)
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