二千九百七十六(うた)短編物語「非叡山のすすめ」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月一日(土)
第一章 永禅和尚の法門観
永禅和尚の律宗にとり、叡山は宿敵の関係である。せっかく鑑真和尚を招いて戒壇を建立したのに、最澄は独自の戒壇を叡山に作った。そればかりか大乗戒のみで済まし、その堕落の行き着く先が、三井寺との武力衝突や、京市街での強訴だ。そして信長の焼き討ちにあった。
最澄は徳一と三一論争になったが、永禅和尚はどちらの側も批判する。良寛和尚と気が合ふだけあって、修行することで仏になる立場だ。菩薩のみ仏になる一乗と、声聞独覚菩薩が仏になる三乗と、どちらも正しくない、とする。
声を聞くそして後の世読み習ふ または独りで覚る人 この三つあり仏への道

反歌  遠くへと略き用ゐず遠略寺奈良の宗派と唐土とシャム

第二章 法華経
永禅和尚が叡山を批判する二つ目の理由は、法華経には排他的な文章がある。
若し人信ぜずして此の経を毀謗せば(中略)仏種を断ぜん(中略)仏の在世若しくは滅度後に(中略)経典を誹謗すること有らん(中略)其の人命終して阿鼻獄に入らん

およそ貪瞋痴を越える立場とは、逆である。仏になる人も、仏になれなかった人も、仏を目指すことに気が付かない人も、すべて温かく見守らなくてはいけない。
それでゐて、比叡山は密教を目指すやうになった。これは最澄が帰国後に、周囲から密教を求められたことが原因だ。最澄と空海が不仲になったのは、空海が書籍を貸さなかったことが原因と云はれてきた。しかし法華経であるべき最澄が、密教に手を広げたことが原因で、そこには世間での出世を気にしたことが原因だ。
最澄は世間が云ふの大師には非ず堕ちたか世俗の利益

三つ目に、シャムでは仏像の前で読むお経が、経蔵の中でも極めて一部だ。唐土の義足経と法句経を梵字にしたものらしい。お経には経蔵、律蔵、論蔵、の三種がある。そのうち経蔵の一部だけがお釈迦様の説かれたものだ。そしてシャムの三蔵には、法華経がない。論蔵よりも後に、作られたのだらう。

第三章 非叡山
非叡山を目指すことは、一見難しい。道元和尚も除外されてしまふ。しかし道元和尚は、唐土へ渡った。道元和尚が叡山で学んだのは、基礎だけだった。
法然はどうか。叡山で学んだが、唐土にも浄土宗がある。直接の接点はないが、日本の浄土宗は、北インドの菩提流支に出会った曇鸞の碑文を見た道綽に師事した善導を高祖、その著作を読んだ法然を元祖とする。だから、法然も叡山で学んだのは、基礎だけだ。
法然の生まれた平安時代末期は、戦が絶へなかったので、浄土思想が好まれた。とは云へ、学派の唐土と異なり、日本で浄土宗を固定してよかったのか。ここが法然の弱点である。
叡山で学ぶ道元法然は共に基礎のみ異なる道へ

良寛和尚も渡航をしたのなら、道元和尚から学んだのは基礎だけだ。若い時の傾倒が、越後へ帰国後に大きく変化したのはそれが理由だらう。坐禅集中仏法から、全方位仏法へ変化した。日本流の教団宗派から、唐土流の学派宗派、つまり仏法全体が一つの教団であった。(終)

「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百八十五) 「良寛和尚と初期仏法を尋ねる」(百八十七)

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