二千九百八十二(うた)短編物語「松陰は生きてゐた」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月四日(火)
第一章 安政の大獄
安政の大獄で、吉田松陰は斬罪に決定した。しかし、幕府に知恵者がゐて、松陰を生かしておいたほうがいいと進言した。その理由は、幕府に役立つと云ふもので、井伊直弼はこの進言を聞き入れた。
とは云へ、吉田松陰は幕府の厚遇申し入れを辞退した。多くの仲間が処刑されたのに、自分だけ厚遇される事はできない。尤もなことだった。幕府は、松陰の扱ひに困ったが、牢内に書籍を与へた。武士の牢は、庶民とは異なる。門人たちの差し入れで、松陰にとり最も平穏な日々だった。
松陰を生かしておくはその知恵を幕府のために活用と しかし辞退し使へずも別の訳あり大いに役立つ
反歌
塾生が松陰の死を知るならば皆が憤慨武力倒幕
第二章 長州征伐後
第一次長州征伐の結果、高杉晋作は不満だった。しかし藩の上層部に対し、武力で対抗する気力はない。もし師匠の松陰が処刑されたなら、大いに発奮しただらう。生きてゐるなら、幕府の命令は仕方が無い、と諦めた。
とは云へ、メリケン国と幕府の対応は、見てゐられない。晋作は江戸に出て、江戸城の門前で大声を出し、捕縛された。長州藩は、煩はしい人間が、表に出て来なくなってよかった、と喜んだ。当の晋作も、松陰先生と同じ小伝馬町の牢屋敷に入れた、と喜んだ。
晋作が胸の病に倒れるは元から病むか捕縛のせいか
第三章 桜田門外の変
安政の大獄の恨みは、消えてはゐなかった。井伊直弼が、桜田門外で暗殺された。これが転機となり、吉田松陰は軟化し、幕府に協力するやうになった。その進言は、老中たちの評判になった。そして事は、大政奉還まで無事進んだ。
直弼が暗殺されて松陰は仲間の無念晴れたと安堵
大政奉還後は、一つの藩となった幕府と各藩合議で政府は運営された。ところが外国との交渉は、大きな障害になった。つひに戦となり、江戸の品川にあった政府は炎上、上層部にかなりの犠牲所が出た。日本側がしぶしぶと西洋列強の主張を認めたため、戦はすぐに終はった。
第四章 武士の廃止と、廃藩置県
このころ、各藩合議会のほかに、中堅武士による実務者会議があった。各藩合議会は犠牲者が多く、機能しなかった。実務者会議は、犠牲者を補充して、続けることができた。
数日とは云へ、戦の影響は大きかった。武士の廃止と廃藩置県が、次々に実行された。尤も、農工商の経済発展が著しく、武士の俸禄は無視できる金額だった。
幕府ではない政府なら、国民に強権を発動せず、一方で農地の大地主への集約と、工商業の財閥への集中は、厳しく制限できた。
薩長の武力で作る幕府とは 政府に非ずななそ年後に滅びる世の流れにて
反歌
薩長の幕府傲慢清盛や信長軍と変はることなし(終)
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