二千九百四十八(うた)1.「会津のローカル線」、2.空振りの「峠」その他
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月十三日(月)
図書館で、フォトパブリッシング「会津のローカル線」、司馬遼太郎「峠」、稲川明雄「北陸戊辰戦争資料集」、の三冊を借りた。
「会津のローカル線」は勝れた写真集だ。表紙の次頁にはC11が牽引し第六大川鉄橋を渡る黒一色の貨物列車だ。先頭は車掌兼荷物車、次からは有蓋車と無蓋車の列。昭和48年。
次は見開きの頁も使ひ、C11が牽引し第五只見川橋梁を渡る車掌車の後、黒とカーキ色の有蓋車が交互に二両づつ。昭和49年に、車掌車が最後尾ではない。その次の頁がまえがきで下部には、昭和43年の下野、会津、越後地方の路線図が載る。会津若松から終点の只見までは会津線。もう一つの会津線は終点が会津滝の原。尾瀬や只見へのバス路線は、会津田島から出る。滝の原の南側を通るが、滝の原とは少し離れた場所を通る。越後側は、大白川までが只見線だ。
尾瀬へ行く高原バスは 鉄道の会津田島を発車して 滝の原より南側走りて長い車中の旅路
反歌
今年より尾瀬へのバスは田島発会津高原着発廃止
反歌
滝の原会津高原尾瀬口にしかし今では乗り換へできず
反歌
田島発尾瀬へのバスは北上し尾瀬口駅は遥か離れる
数頁先には、第一只見川を渡るC11。すぐ後ろにはオハユニ61が連結と解説にある。道路が不便なので、荷物は鉄道輸送だった。ここがトラック代行輸送の首都圏と異なる。昭和46年。
二等車に荷物と郵便併設の客車は走る煙の後に
数頁先に、クリーム、緑、黄緑のキハ40。平成30年。国鉄時代の気動車は、急行、一般、通勤で、色の塗り方が異なった。その統一美と、混結したときの興味があった。JRになり、興味を失ふ理由だ。
写真集の最後の章は日中線だ。C11が逆向きに客車を牽引し走行する写真は
残雪の飯豊山地を背に熱塩を出発、(中略)荒れた小屋、散乱している材木など(以下略)
小屋や材木は、或る程度手前。昭和49年。
次の頁は、熱塩駅で発車を待つC12。機関車本体に石炭と水を載せ、軸重11t、最高速度45Km/h(軌道に影響ないときは65Km/h)は、今回初めて知った。電気式SLを提案したが、この程度が手頃だ。変な事業用気動車が牽引するよりは。この写真は、熱塩駅で発車を待ち、機関車は前向き、後ろに無蓋車、客車二両、無蓋車一両、有蓋車一両その後ろは見えない。この写真に注目したのは、これらよりも、機関車の前方右側に高床屋根付きの貨物ホームがあり、手前に米俵(だと思ふ。炭かも知れない)、左に薪木、奥に立てかけた材木。昭和35年の貴重な写真である。
司馬遼太郎「峠」は、ほとんど読まなかった。読んだ字数は、五十文字程度だ。まづ、司馬遼太郎とその周辺の連中に不信感を持った(一、二)ことと、長編物語(世間で云ふ長編小説)を文学として扱はなくなった。平家物語は特別である。
今回の「峠」は、河合継之助の真実を知りたくて借りたのだが、冒頭から作り話の連続だった。更に、小生も加齢により長い読み物は嫌ひになった。良寛和尚や石原莞爾のときは物語の、ここは間違ひだと何回も思ひながら、最後まで読み通した。それから数年を経過した。
最後に「北陸戊辰戦争資料集」を開いたが、これは原文だ。貴重な資料だが、高齢者が読むには時間と根気がない。若い時には、ずいぶん原文を読んだ。正仮名遣ひもその影響だらう。(終)
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