二千九百二十三(うた)左千夫の歌論
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
九月二十六日(金)
伊藤左千夫の歌の欠点は、正岡子規の歌論に随ひ過ぎることだと、予て思ってきた。最新の歌論文芸論(他を盛り立てる、組み合はせの美しさ)を書く時に、左千夫の連作を検索し、「ほろびの光」の五作が出てきた。
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
鶏頭のやや立ち乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり
秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花
鶏頭の紅(べに)ふりて来し秋の末やわれ四十九の年ゆかんとす
今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅の光
破調が多く、二首目と四首目は子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を連想し、左千夫の欠点は子規の写生論に従ひ過ぎることだと結論を出した。そして今回の記事になったが、改めて読むと魅力があることに気付いた。
終戦後昭和末まで名の高き左千夫はその後忘れられ そこに偏向意図ありと気付き再び名を戻す為
反歌
赤彦と左千夫は若く亡くなりて戦後世の中万葉離れ
九月二十七日(土)
ところが今日読むと、また異変が起きた。一首目は、「おりたちて今朝の寒さを驚き」まではよいが、その後が悪く最後の句は字余りだ。二首目以降も同じで、つまり子規の(1)写生、(2)破調容認、が原因だった。
子規は、古今集以降を批判する事に功績があった。しかし写生と破調容認は、和歌の破壊だ。そして古今集以降を切り捨ててることは、原理主義だ。原理主義とは、途中を無視する。途中の変化は理由がある。一つは適応のため、一つは堕落のため。子規は、この二つを区別しなかった。
西洋の流儀が入り 秋津洲今までのみは困難に 幾年月に堕ちたもの捨てることのみ選ばずに 新たな技を入れるとき副作用あり注意を要す
反歌
写生論破調容認我が国の歌を壊すか罪軽からず
九月二十八日(日)
これだけ字余りが多いと、短文または短文歌と呼ぶべきだ。現代の用語では短詩が合ふが、江戸時代までの、詩は漢詩、歌は和歌、の用法を守った。
一首目の「柿の落葉深く」は字余りだ。「落葉は深し」がよい。柿を入れたいなら「柿落葉深く」、これを推敲して「柿深落葉」。簡単に修正できるのにしないのは、子規の悪影響だ。
他の歌も同じだが、それとは別に五首目の「今朝の朝の」は、今朝に朝の意味があるから、避けなくてはいけない。もう一つ、助詞「の」の連続は、できれば避けたい。「早き朝」がよいではないか。「早(はや)朝に」でもよい。音読みでもよいが、左千夫は和語優先で、これはよいことだ。
ごんべんのうたはもろこし けんづくりうたはそらみつ 字余りは短文または短文うたへ
反歌
字余りや話し言葉と低俗語入れるべからず歌が壊れる(終)
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