二千九百三(朗詠のうた)最新の歌論(ダ行、同じ助詞の繰り返し)
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
八月二十八日(木)
ここ一年ほど気を付けることに、ダ行を避ける、がある。ジとズは、ザ行だから該当しない。ダ行はダとドだけである。デも駄目だと今は思ふが、前に書いた歌論ではよいことになってゐる。
ダ行を発音すれば、ディ、ドゥ、ドェがあるが、日本語離れしてゐる。最近、ジュやジェが駄目だと主張することがある(例へば八月十九日)。その根拠もここにある。

ここ一年だけではなく、昔から駄目なものが二つある。一つ目は同じ単音の繰り返しだ。例へば八月二十四日の「アメリカの猿真似するは若さ故若狭DC末な呼ばれそ」は、最初「アメリカの猿真似するは若さ故若狭DC末な名乗りそ」だった。「な名」と同音なので、変更した。因みに「若さ故若狭」と同音繰り返しの序詞にしたのは、まったくの偶然で、推敲するうちに発生した。
萬葉集や古今集の序詞も、偶然から発生したのではないだらうか。つまり、序詞を使はうとして使ったのではなく、推敲の過程で使へる状況になった。
小生は、掛詞が嫌ひだ。だから序詞でも、掛詞型は用ゐない。小生は、古今集型ではなく、萬葉集型だ。

八月二十九日(金)
昔から駄目なものの二つ目は、同じ助詞の繰り返しだ。「は」「が」「に」でよく起きる。「へ」をよく使ふやうになったのは、それが原因だ。「の」の繰り返しは問題ないが、これもほとんど使はない。
同じ助詞の繰り返しは、普通文でも避ける。これは昔からだ。同じ単音の繰り返しも昔からだ。つまり、普通文の作り方が、歌に影響した。
逆も少しある。ダ行を避けることが、普通文を書く時も、ふと頭に浮かぶ。とは云へ、今は普通文だ、と思ひながら「だ」を使ふ。
元々の文(ふみ)を元手に詠む故に元を磨かず歌は光らず

以上のほか、ここ一ヶ月くらい気を付けることに、同じ語を避ける、がある。今の歌は最初「元々の文(ふみ)を元手に歌を詠む文を磨かず歌は光らず」だったが、「文」「歌」の重複を避けた。

八月三十日(土)
歌謡と浪曲の「浪曲師顔の仕草を観るためにしかし画面は静止画のみ」は、一昨日の「だ」を避ける理由により、「に」になった。「だ」は意味がはっきりするが、「に」だとやや曖昧になる。別の言ひ方をすると、読む人に解釈の余地を与へる。
読む人に選択の余地があることは、美しさの一種だ。とは云へ、意図的に曖昧を作り美しさを演出してはいけない。「だ」を避けるなど、理由がある場合のみだ。
「だ」を避けるもう一つの理由は、断定を避ける。似たものに、命令形を避ける、もある。どうしても使ふときは、「しろ」ではなく「せよ」、「するな」ではなく「勿れ」、と穏やかにする。(終)

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