二千九百(普通のうた、朗詠のうた)最新の歌論と文芸論
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
八月二十三日(土)
前回の歌論で、中長篇の物語(世間で云ふ小説)は文芸ではない、とする主張を紹介した。併せて、詩と称するもの(漢詩と和歌以外)も文芸ではない、とも主張した。
これらの根拠は、明治維新以降に現れた。中長編の物語は、作り話である。例外として、史実または史実と思はれた、または少し違って美しさを出したものは、文芸性があることを前回指摘した。
作り話が悪い理由は、話の展開に引き込まれると、その先に関心を持ってしまふ。この段階で、作者が勝手に作ったものだと気付けば、抜けることができる。この先、主人公が成功しても失敗しても、それは作者の意のままではないか。
このことに気付いたのは、大河ドラマだった。昭和四十年代の大河ドラマは、史実か有名な物語に忠実だった。或いは「樅ノ木は残った」みたいに、有名な物語をわざと最終場面だけ変へたものがあり、しかしあれは失敗作だ。
そして1984年から徐々に、作り話の比率が多くなった。番組内の比率が高くなるとともに、比率が高い年も多くなった。
物語り 作り話か読む人に覚られぬやう書くべきも テレビドラマが一番悪し

反歌  繰り返し年ごと劣化芥川直木両賞大河に倣ふ

八月二十四日(日)
詩と称するもの(漢詩と和歌以外)で、小生が美しいと感じるのは、歌詞など定型のものだ。非定型に美しさを感じないのは、江戸時代までの人たちも同じだった。つまり明治以降の一時期、非定型の詩と称するものが現れた。
歌を詠む対象が、ロマン派だったり写生だったりするのも、明治以降に現れたものだ。さうなると、明星と子規派の両方が駄目になる。子規の歌論は、(1)反古今、(2)親万葉、(3)写生、の三つがある。このうち(3)写生は、西洋詩の影響を受けるから、非定型詩と同じで駄目だらう。
(1)反古今は、半分反対半分賛成だ。古今集の持つ美しさを捨てたら、何が残るか。古今集が勅撰和歌集だったことから、それ以降の和歌集は堕落した。それを批判する部分は賛成だ。
(2)親万葉も、半分反対半分賛成だ。万葉集は、民俗記録書だ。言霊信仰もある。そのまま真似をしても、美しいとは云へない。半分賛成なのは、素朴の美しさ、力強さ、古語の美しさがある。
よろづ葉と古今は半ば美しさ 近き代となり西からは形役立つ手を除き入れると文の芸(わざ)を失ふ

反歌  唐土の詩(うた)と大和の歌が持つ千(ち)か二(ふた)千(ち)年栄える長さ(終)

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